下北沢トリウッド

午前1時29分

 

アマノジャク・思春期

www.amanojaku-sishunki.com

受け口の子供が悩んだり喧嘩したり走ったりする映画。

俳優は基本的に全員大根。それ以上にト書きをそのまま読み上げさせているようなぎこちないセリフが芝居から生命力を奪っていた。

ただし主演の子供の演技にだけは圧倒される。ほとんどセリフらしいセリフを吐かないのだが、同級生や家族に責められているときの所在なさげな体の動きは迫真。子供を責めるタイプの親を持っていた人なら必ず心をえぐられるだろう。更に大半のシーンで顔をマスクで覆っているのに、目の芝居だけで感情を雄弁に表現している。怒りと恥と悲しみと自己嫌悪を同時にたたえた眼差しを放てる小学生に鬼気迫るものを感じた。

作中では主人公に救いは訪れない。家庭環境は悪く、クラスメイトからは疎まれ、教師には腫れもの扱いされ、弟からはそんな兄であることそのものを責められる。いじめっ子だけでなく親まで人格に問題を抱えており、理解者は誰一人としていない。

主人公を取り巻く環境の底意地の悪さが物語にとって理想的に主人公を追い詰めていく。

やくざ映画のように綺麗にマウントをとる子供の喧嘩や、まるで大人の視点を持っているような小学生の悪口は、主人公に降りかかる災難が作り物で、「大人が想像する子供の受難」であることを浮き彫りにする。

もしこの映画が「特殊な身体的特徴を持った子供の苦難」とか、「普通から外れてしまった人間の疎外感」だとか、そういうものを訴えようとしていたのならこれは大きな失敗だ。

苦悩する主人公に対し、周りの人間のしつらえられたような性格の悪さがあまりにもわざとらしく、作中の出来事の現実感を削いでしまっているのだ。現実にありうる問題を描いた作品として戯画化・寓話化がいきすぎていて、確かに身近に存在するはずの問題がずっと遠い距離にあるかのように見えてしまう。

 

というようなことを鑑賞後に考えながら劇場の廊下を歩いていたらキャッチコピーを見て驚いた。

 

「その子はクラスから仲間外れにされるのを、自分の受け口のせいだと思っている。」

 

この子がクラスから仲間外れにされるのはこの子の受け口のせいではないのだろうか。

主人公はコミュニケーション下手で(無口なうえ何かを話しても聞き取れない)、性格も暗く、ほかの子供から見れば理解できない行動に及ぶだけでなく、トラブルを起こすことも頻繁にある。主人公が抱えるこれらの人格上の欠点のほうが問題で、現にクラスメイトから受け口を馬鹿にされていることや、自分の目の前で親に厄介そうに受け口の治療の話をされるのは、些末な問題だというのだろうか。

主人公が自分に対する侮辱や暴力から身を守るために、またはそれらに対する報復として暴力をふるうことを、僕は全く悪いことだと思わない。

そもそも主人公がその地点に追い詰められていったのは受け口を蔑む周囲に原因があったのではないのだろうか。

社会的な一般論ではまず暴力の前に話し合いがあるべきだとか、親や教師に相談すべきだとか言われるかもしれないが、小学生相手に論理的な話し合いなんて成立するわけがない。主人公が起こすトラブルのせいで教師がけがをするシーンもあるが、それは主人公が抱える問題に無知であり、いじめを止めることができなかった教師が払った代償でもある。

言葉も大人も自分を守ってくれないなら、恐怖か痛みで自分を守るしかない。敗北者であることを受け入れられないのなら、被害者は2人目の加害者になるしかない。

または、監督は「身体的特徴なんて本人が気にしなければ大した問題ではないし、堂々としていれば次第に回りも変わっていくのだ。それを気に病んで周囲から孤立するのは愚かなことなのだ。」とか寝ぼけたことをこの映画を通して伝えていたのだろうか。

この映画が訴えようとしているのはそんなことではないと僕は思ったし、結果的にそうではなかったことが監督自身のプロフィールから判明するのだが、上述の「主人公を取り巻く現実が非現実的なまでに最悪なこと」と併せて考えるとあまりにも皮肉なフレーズだ。

更にポスターを読んでみると、監督自身が子供時代に受け口であり悩んだ経験があったのだという。つまり、主人公を取り巻く環境の無理解や劣悪さはある程度監督本人の実体験に即しているということだ。

一応、主人公のコンプレックスの根源は親の配慮の足りなさから始まっていることが描かれている。冒頭で医師から子供の受け口の治療に手術が必要なことを知った親が「ちゃんと口を隠さないと同級生に馬鹿にされるよ」と子供に伝える。子供は自分の口を隠すようになり、それが周囲の嘲笑や侮蔑に発展していくという流れになっている。

「そのようなコンプレックスを周囲が子供に与えてはいけない、そんなことをしたら子供は自分が抱える問題の原因が自分にあると思ってしまう。」というのがメッセージなのだとしたら、それは些か個人的すぎると僕は思う。

何故なら、身体的な特徴が批判や侮蔑の対象でない等というのは、今や自明の理だからだ。監督自身の怒りには僕はあまり興味がない。

物語におけるリアリティとは、感情よりも理性を通して実現される。物語の中で起こる出来事が過去に実在したことであるかどうかよりも、その物語の世界に存在する正義と悪が公平に描かれているかが重要だと、僕は思う。

 

 

COCOLORS

gasolinemask.com

 今日見た映画の中ではまともすぎた。

 

薄暮

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ある程度楽しみにしていた作品。

起伏のない淡々としたストーリー、所謂アニメ的記号表現を使わない抑制された演出、あと作画が省エネなところ…は大好きなJust Because!に似ていたが、こちらは「日常シーンで見せる」といえるレベルには達していなかった。

素晴らしいロケ地の美しさを表現するには作画が平凡すぎ、人物の芝居に目を見張るようなものもない。物語も淡々としたまま観客の手を引くことなく勝手に進んでいき勝手に終わっていた。

 

 

バイオレンス・ボイジャー

violencevoyager.com

正直開始直後に席を立とうか悩んだくらい82分間付き合うのが不安な作品だったが、最終的にはなかなか面白く見られた。

正直内容についてあまり語ることはない。悠木碧の演技万歳。

この作品はインパクトがありすぎるのでトリに持ってこないでほしかった。薄暮やCOCOLORSの印象が上書きされてしまった。

 

 

 

 

 

まとめて映画感想とDMM半額キャンペーン

0時48分

最近文芸坐で観たやつ

 

忍ぶ川  (1972年)

自分の人生に常に死を思い描きながら生きてきた男と、望まない婚約と死を間近に迎えた父親の間で揺らぐ女性とが出会って…的な話。

主人公とヒロインの人生に背負う影と閉塞感が2人の出会い、そして結婚によって克服され、謂わば2人が新たな人生、生まれ変わりを迎えるというストーリー。

古い東京風情を残した70年代の深川近辺のロケが素晴らしい。

それにしても主人公のキャラクターがキモい。ヒロインと一緒にいてもニコリともしない、自分から話しださない、何か言われても「そうかい」「ああ」しか言わない。生い立ち上ふさぎ込んだ性格になってしまったという設定なのだとしても、典型的なムッツリ童貞野郎である。その割にはヒロインを「僕はどうだい(キモい)」みたいなノリで口説きに行く積極性はある。

それにしても120分が異様に長く感じた。婚約者の件で主人公がヒロインを疑うパートとか、新婚初夜とかあんなねっちり描く必要があったのだろうか。痴話喧嘩パートなんて主人公のナチュラルな童貞セクハラ発言でキモさが倍増していたし。

 

サンダカン八番娼館 望郷  (1974年)

大地の子守歌」系の"やりすぎなまでに過酷な登場人物の運命に観客が置き去りにされる"タイプの映画かと思いきや、登場人物の半生を通して真摯に日本の戦中戦後史を見つめ直す映画だった。若いころのおサキさん綺麗でいいね。

なにか衝撃を受けるたびに管弦楽器音が「ババァーーン」って響くキャラクターの感情演出がいちいち大げさでウケた。

 

生きる (1952年)

もうセットだけでお腹一杯になれるくらいかっこいい。

花とアリス殺人事件」のカフェテリアのシーンはこの映画のオマージュだったんだね…。一つの画面を通して二つの系列の出来事が並行して進行していく手法、漫画にも影響を与えたんじゃないだろうか。小説では実現できない現象。

 

神々の深き欲望 (1968年)

現代日本における地方の土着生活を通して世界創生神話の再翻訳と多分現代社会批判を同時に成立させようとした意欲作、というか欲張り作?

実の妹との情事を指して「神様の真似事なんてできねえ」という台詞には目が覚まされる思いがした。

東西の神話の典型である人類の起源は一組の男女であったというフォーマット、そして神話の世界で頻繁に行われる近親相姦。それが世界の創造の為に特別に許された禁忌だとしたら。近親相姦によって生れ落ちる子供が何らかの欠落を持つのだとしたら、「最初の男女」の子孫たる人類は皆何かしらの点で狂っているのではないかという疑問。そして、禁忌を犯すことが罪であれば、残された子孫はその生をもって自分たちの父母が犯した罪を未来永劫に渡って贖いつづけているのだろうか。

作品内では離島に暮らす人々の独特の慣習、信仰が主要な登場人物に対する受難として描かれている。都会からやってきた会社員精神あふれるサラリーマンにもそれは降りかかる。

この映画では現代社会と原始的な自足自給社会を一元的な対立構造に捉えておらず、古くから続く風土や土着信仰を無垢で清浄な存在として扱っていない。むしろ島民の村社会を通じて現代社会の人びとが織りなす二元模様の不合理さ、政治の空疎さや集団心理の醜悪さを表現しようとしたのだろう。主役の太一家と技師に対してもそのフラットさは徹底しており、被害者的に描写される彼らですら醜く粗野で狂気をはらんだ弱い人物像が与えられている。

この映画には快活な登場人物というものが存在しない。フィクションにおける魅力あるキャラクター造形をあえて避けている。それがこの映画に対して観客が愛着を抱くことを拒んでしまっているのだが、神話における神や英雄が必ずしも典型的なヒロイズムを備えていないことと符合しているようにも思える。

しかし劇中の出来事や登場人物の不条理さや醜悪さが強調されたあまり、現代社会への批判的メッセージとしてはかなり冷静さと公平さに欠けてしまったように見受けられる。

 

楢山節考  (1958)

姥捨て山の慣習を映像化した作品。撮影が全てセット、音楽は浄瑠璃長唄、三味線のBGMで一貫しており、劇中歌の歌詞も直接的に画面の情景を歌ったものになっていることでスクリーンの中の世界が作り物であることを意識させられる。それにしても昔話・時代劇的な日本の田園風景と三味線のサウンドは必ずしもマッチしない。三味線の音色がしっくりきたのはラストの白骨が散乱する楢山のシーンくらいじゃないだろうか。

「神々の深き欲望」に引き続き、村社会の慣習とその中で暮らす個人の衝突、つまり集団と個の対立が描かれる。ただし楢山節考では「個」たる息子と母がヒューマニズムの象徴として捉えられている。

形骸化した慣習の不合理さ・集団心理の非情さと個人の対立というテーマは個人主義が当たり前になった今やっても古臭さしか感じられないだろうが、それが過去のものとして扱える分人間は進歩しているのかもしれない。

 

 

関係ないけど、DMMで半額セールになっている電書エロ漫画のラインナップが素晴らしすぎる。

大横山飴の「落ちない雨」は紙のも持っているけど買っちゃった。

きいろいたまご作品はもちろん、べろせの「べろまん」、佐骨の「フォトグラフ」、大塚麗華の「みだらぶ」も良い。勉強になった。ふたりがけごはんのヒロイン可愛すぎ。

 

book.dmm.co.jp

 

 

泥の河/砂の女

午前1時3分

 

今日は天気が良く自転車で池袋に行けた。

 

新文芸坐 - キネマ旬報創刊100年記念 キネ旬ベストワンからたどる昭和・戦後映画史

http://www.shin-bungeiza.com/pdf/20190707.pdf

 

泥の河

凄い。単純に圧倒された。画面に映るすべてがかっこいい。いつもそうなのだが素晴らしすぎる作品に出合うと"良い"という言葉しか出てこない。

この映画にはいくつかテーマが設けられていて、幼少期に訪れる出会いと別れだとか、戦後の日本だとか、子供が大人になることを意識する転機だとか、どれも丁寧に表現されていて十分素晴らしいのだが、それらが些事に見えるほどの圧倒的な情景が画面に描かれている。

文字通り町と工場の汚れを飲み込んできたであろう(多分)安治川の濁った流れ、白黒スクリーンでもはっきりと伝わる暗澹とけぶった空の色、軋むトタンと傾く床板 - それらに囲まれた風景の中にたたずむ煤けた頬の子供たち。

この光景に胸打たれない人間はいるのだろうか。いやいないだろう。僕が生まれた土地が東京の旧工業地帯だからとか、大阪時代に安治川近隣に住んでいたからとか、小さいころ明日のジョーが好きだったからとか関係ないはず。いやない。あらん限りの力で訴えたい。これはすべての日本人の心象風景だ。

(関係ないと言えば安治川の九条-西九条を隔てるポイントにはとても珍しい川底を横切るトンネルがある。エレベータ付きで自転車も通れる。味あり過ぎ。)

情景だけでなくディテールにしつこい程凝っているのもため息が出るほど素晴らしい。

きっちゃんが着ているタンクトップの丈の長さ(貧乏描写としてリアル過ぎ)とか、突然流れはじめる赤胴鈴之助の歌とか、棚に並ぶいちいち貧乏くさい瓶・缶の類。観客を喜ばせるものしかこの作品のフィルムには焼かれていないのだ。

きっちゃん姉弟のためにのぶちゃんがサイダーをくすねるシーンや、廊船とのぶちゃんの別れのシーンなど、感涙物の場面にしようと思えばしてしまえるのにあえてドライな展開で終わらせてしまうところも好き。

 

物語に目を向ければ、この映画は断絶の話だ。生と死。充足と窮乏。大人と子供。二つの世界をの狭間に流れる断絶が徹底的に描かれている。

荷馬車引きのおっちゃんや河さらいの老人の死は確実に幼いのぶちゃんに死という未知の概念を知らしめたであろうが、それが若すぎるのぶちゃんに実感を伴うものとしてもたらされたものかどうかは眩しそうに眉をしかめる表情からは読み取れない。生の真っただ中にあるものにとって、死は目の前に現れてもなお現実味を帯びないものなのだろうか。

客観的に見て裕福とは程遠い暮らしをしており、学校では友達にテレビを買ったことを自慢される立場にあるのぶちゃん家族ですら、観客は覆い隠しようのない貧富の差をきっちゃん家族との間に感じる。

それらが特に子供の目線から語られていく訳だが、こと子供と大人の隔絶については断固とした線引きがされているように思える。

この映画は子供が大人になる過程の物語ではない。「信雄が成人するまであと11年ある」と父親がひとりごちるように、わずか9歳の主人公には物語が終わった後も子供としての人生が、幼年の時間が流れていくのだろう。作品の中でのぶちゃんが体験した出来事は確実に彼の人格に影響を与えるだろうが、それは即座に彼自身の中にある心理の変化を予期させるものや、ましてや実感させるものではなく、おそらくのぶちゃんが大人になってからふと思い出したり、彼の人生を時に照らし時に影を投げかけたりするようなものであると思う。

何かの契機や節目ではなく、人間の心の奥深く底の方を流れる風景。泥の河で映し出されるのはそんな世界だろう。

子供と大人の隔たりでもっとも顕著なのが、きっちゃんの母親の部屋をのぶちゃんが訪れるシーンだ。それまで声でしか存在を描かれなかった母親が一人座る部屋は、まだのぶちゃんが知らないであろう外国の女優のポスターや化粧品で彩られている。

そしてその中で微笑をたたえる母親は、この映画で唯一といって良い美意識的な意味での「美しさ」を備えた存在だ。

河も橋も建物も人も、すべてが灰色に薄汚れた世界の中で、白い和服を着こなし髪型を端正に整えた美貌の母親(この映画ならやつれた中年のおばはんが出てくるんだろうと正直思っていたが、ここは観客にこびてくれてよかった。というか美女を否定する理由など映画を観るうえで存在しない)。そんな美しく触れがたいような存在が男の身体の下に組み敷かれ髪を振り乱し嬌声を上げるシーンで、物語は終わりの始まりを告げる。

窓の外から事態をのぞくのぶちゃんの視線を捉えた美しい母親の目からは言葉にできる感情を読み取れない。悲しみも怒りも良心の呵責もたたえない目は、ただ子供にありのままの現実を、現実がそこに存在することを見せつける。

それは子供にとって謎に包まれた存在であった大人の正体を暴くものであったし、大人とは、現実とはこのようなものであるという一面を見せつけることによって、両者の断絶を大人の側から告げるものであったように思える。

 

とにかく物凄い衝撃、ー戦後から70年代にかけての希望と不安と貧困と怒りと混沌をかき混ぜて、凝縮して、それを手のひらに爪が食い込むほど握りしめた拳を顔面にめり込まされるような衝撃ーに襲われるような映画だった。

 

砂の女

これも物凄い作品だったのだが泥の河がそれ以上に凄すぎて正直あまり語るところがない。オープニングからタイトルにかけてが異常なカッコよさ。

それにしても2時間半という尺の映画を前にして、一瞬一秒たりとも気が散りませんでした、終始映画の世界にのめりこんでいられましたという人はいるのだろうか。というかそれだけの長尺の映画を眠気を感じることなく最後まで観られる人っているのか

しかもこの映画殆ど場面同じですよ。

 

雨の日/宮崎夏次系/小津安二郎

午前3時47分

 

雨続きで自転車に乗れない。

 

ILLUSTRATION Exhibition SESSION Vol.01

『せいかつのふしぎ』

https://www.session.gallery/post/183345017112/seikatsunofusigi

www.session.gallery

最終日前日に気づいて訪問。

宮崎夏次系の絵は本当に良い。複製原画が欲しい。すごく欲しい。しかし2万7千円…。

ゆっくり悩んでみることにする。

 

新文芸坐 - キネマ旬報創刊100年記念 キネ旬ベストワンからたどる昭和・戦後映画史

http://www.shin-bungeiza.com/pdf/20190707.pdf

晩春/麦秋

初めての小津安二郎。殆ど同じ構造の二作品。

スクリーンの中の世界に映される日本家屋の映え方は凄い。

障子と襖でブロック分けされた間取りが場面の転換を容易にし、部屋から部屋への何気ない足取りにすらメリハリをもたらす。

家屋を取り囲む廊下と窓が時に部屋を細部まで照らし、時に人間のシルエットを浮き彫りにする。

梁と桟が、障子の網目が画面の中に幾重もの幾何学模様を形作り、複雑な奥行をもたらす。

そんな静謐で秩序だった空間の中に仏壇、洗濯物、薬缶、玩具、その他雑多な小物が配置され、規律のなかに柔和さが加えられる。なんだかドガのバレエの絵から受ける快感に似ている。

そんな空間をカメラは繰り返し繰り返し同じ構図で映し続ける。

時には昼の、時には灯りの中の同じ光景を繰り返し目の当たりにすることで、観るものは日常を意識する。

この作品の中で小津が語るストーリーは、謂ってみれば取るに足らないものだ。

戦後という時勢を反映したわけでもなく、ちょっと偏屈で時代に逆行したような価値観を持つ娘に舞い降りる縁談。娘がその先に描く幸福の形と父が抱く感慨。

優れた文芸作品の御多分に漏れず誰にでも共感できるような、誰にとっても実感のわかないような題材を、執拗なまでに描かれ、もはや重厚と思えるほどに折り重ねられた"生活と日常"の描写が支えている。

BGMを極力抑え環境音を強調した演出が更に空間とその中に散りばめられたオブジェクトの存在を際立たせる。

この作品の日本家屋の中に存在するものは、家具であろうと日用品であろうと人間であろうと均しく静物であり、小道具だ。そしてそれは例え命をもっていようといなかろうと均しく息づいていた。

 

観ながらぼんやり"これって山田尚子の「リズと青い鳥」に似てるなー。やっぱり影響受けてんのかなー。"なんて考えていたが既にすごく分析的に指摘している人がいた。

 

www.nicovideo.jp

 

そろそろブログに写真を上げたいな。

 

 

 

 

 

 

新文芸坐-萩原健一特集

2019年6月24日

午前2時42分

 

出張で中国に行っていた。

 

恋文

妻と子供を持つ中年男性の特異な恋愛を描いた物語。

余命僅かな元恋人から数十年ぶりの手紙を受けとった男が家族や仕事や自分の将来さえ顧みずに心のなかに芽生えた情熱に従って生きるお話

といえば聞こえはいいが、ふたを開けてみれば主要な登場人物全員が狂っており、それに翻弄される子供だけが正気という異常な世界の話だった。

もちろんこれは常識的な価値観の恋愛や家族観を描くための映画ではないのだろうが、その異常な世界を通して垣間見えるのが決して美しいとはいえない侘しい中年同士の恋愛というのが憐憫を誘う。

作中で萩原健一演じる夫はありとあらゆるものから逃げ続ける。妻、子供、仕事、恋人の死、そして自分の勝手な行動に対する周囲の人びとへの説明責任。

それらからの逃避先が愛人やはたまた妻であったり友人宅であったり酒や暴力、ときには刑務所であったりするわけだが、愛人の最期を見届けることから逃げた結果家族のもとに帰ることは選ばなかった。

妻もそんな夫を責めさえすれど見捨てたり拒絶したりすることはない。夫の無軌道な行動に対する説明を息子にすることもない。

マンションの廊下を照らす電燈に浮かぶ男の背中で物語は終わりを告げる。しかし、家族は、少なくとも妻は、そしておそらく息子も切実に夫の帰りを待っていたのだ。

 この行為は夫にとってそれまで繰り返してきた逃避のうちの一つなのだろうか。あるいはとうとう最後の退路を断ちきって終の場を探す旅に出たのだろうか。

いずれにせよ、これが中年男性が胸に抱く自己憐憫でありナルシシズムなのだろうか。

論理的な行動規範もなく、ただ自分の欲求にしたがいささやかなロマンスに身を投じ、かつての恋人は二十数年経っても自分を思い続けてくれ、妻は身勝手な自分を悪者にせず半ば背中を押してくれさえし、子供は相変わらず自分を求め続けてくれる。

仕事に費やしてきた年月が自分の人生の半分以上を占め始めてきた男が一生の行き止まりを垣間見る前に思い描く夢の形の一つがこれなのだろうか。

少なくとも今の僕にはまだ理解したくない、理解できなくて良い世界だった。

 

離婚しない女

萩原健一主演の同じく鬱屈とした感傷的な中年の恋を描いた映画。

フィクションの世界で描かれる中年の恋愛がどれも陰鬱でジメジメとしているのは彼らが生きる時間に流れる渇きを覆い隠すためなのだろうか。

この映画の登場人物の表情は本当に暗い。うなだれ、歯を食いしばり、眉間に皺を寄せ、言葉にならない苦しみをスクリーンの向こうに訴え続ける。たまに見る笑顔といえば張り付いたような薄ら笑いやわざとらしい作り笑いばかり。

北海道の自然の厳しさと彼らの人生における先行きのなさが妙にシンクロする。

恋愛に身をやつしているはずなのに、自分の中の燃えるような衝動に突き動かされ快楽と愛情を求めているはずなのにそれでさえ彼らには苦しみが伴うのだろうか。

ひょっとすると人生とは彼らにとってそういうものなのかもしれない。

悲鳴を上げ、地を這うような苦しみを伴いながらも何かを探し求めることが生きることだと彼らは訴えたいのかもしれない。

 

 

最近の活動-怪獣映画ってそうじゃないよね

運動を始めた。

髪を自分で切っている。

 

2017年6月9日午前1時57分

水のないプール(1982)

内田裕也主演。この時代の日本映画が持つどことなく湿り気を帯びたような不穏な空気が好き。

水の張っていないプールでシャボン玉を吹く女性。改札口に絶え間なく響くパンチの音。真夜中の噴水。無機質で懐かしいイメージの洪水。

クロロホルムで気絶した女性の身体を弄ぶ一連のシーンがやたらと執拗で、それらのイメージに水を差していたのが残念。確かに顔もスタイルもいい女優を集めていたが、マグロとまぐわう内田裕也程どうでもいいものもこの世にないだろう。

映画がその映画にしか実現できない質感とカットで成り立っている限り、僕は映画には幻想を見せてほしい。飛び切りの幻想を。

 

海獣の子供

高校生の時に原作を途中まで読んでいた。確か3巻くらいまで。

僕の中で五十嵐大介の最高傑作は「はなしっぱなし」で止まっている。

読者の思考を拒んでいると言っていいほどに感覚に訴えかける漫画が映画になって、そのうちのどこが切り取られどこが捨てられたのかも今の僕には分からなくなっていたが、この映画は止まっていた時間を記憶の中からすくいだして進めてくれたような気がした。

世界中の神話や伝説の共通性、海の生物の生態を教えてくれるのも原作の面白さのひとつだった。映画ではそういったサイドストーリーはカットされ、物語がルカを取り巻く出来事として再構築されていたように思う。

結果的に作品内で起こる不思議な事件に対する神話的な面でのバックボーンが取り去られ、かえってサイエンスフィクション的な説明への期待が高まってしまっているような気がしたが、そんなものは結局ないのだから、ジムや怪しい外国人政治家達との会合シーンはなくてもよかったんじゃないかと思う。

あれでかえってロジカルに物語が種明かしされるような匂いが不必要に感じられてしまう気がした。

誰もが納得いくような答え合わせがあるなんて、期待させない方が良いだろう。

怪獣の子供はそんなことの為にある作品ではないのだから。

この映画は解釈(理解ではなく)を拒み、観るものを置き去りにする点で原作に忠実に作られているが、それはアニメーション映画という形態になったことでより際立つものになったと言えよう。

生命の誕生と死、そして再生の儀式が、押し寄せるようなビジュアルと眩さの中で描かれている。

一つの命を生むために何千万の精子が犠牲になるように、生誕祭を前にして波打ち際に運ばれる無数の深海魚。

一人の少年に訪れた死が、惑星という大きな体系の新たな器官の誕生となる。

誕生が死に、死が再生に繋がれていくように、命と命の間でも集合と離散が繰り返されている。

怪獣の子供はそんな途方もないイメージを伝えてくれる。

しかし、それ以上に胸を打つのは、真摯に描かれた日常の風景だった。

マンホールを踏む足音、擦りむいた膝を撫でた時の手触り、窓を這う雨のしずく。これ程までに人間を取り巻く世界の質感を雄弁に伝えてくれる作品がかつてあったか。

それだけを伝えるために、映画は作られていい。

 

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

怪獣好きな少年がハリウッドの力を得て、怪獣に興味のない観客の為に心ばかりの家族ドラマを添えて、自分が望む最高のゴジラ映画を撮った。そんな印象。

確かにハリウッドが提供する映像は圧巻といえる。ゴジラが、ラドンが、キングギドラが、そしてモスラが画面に映っている限り退屈することは一瞬もなかった。いや、明らかに最高の興奮を与えてくれた。間違いなく面白い。けど、ただそれだけだった。

キングオブモンスターズは怪獣映画になろうとしているけど、何故だかなりきれていない。

人間ドラマが共感性皆無で鑑賞の邪魔なのには目をつむる。ゴジラに最初からそんなもの求めていないし。

人間と怪獣が直接接触しすぎなのも許す。これじゃジュラシックパークと同じじゃないかとも言わない。

だが、キングオブモンスターズには怪獣映画にとってとても大切な何かが足りない。

怪獣映画は怪獣がただ暴れていればいいのか。

怪獣映画ってそうじゃない。

何のために怪獣が町を破壊するのか。なぜ観客はそれを心待ちにするのか。

それは日常の崩壊を見たいからだ。

自分たちを取り巻く見知った日常が、怪獣という非日常に蹂躙されるその過程。

踏み割られるアスファルトや、焼け爛れる鉄塔や、咆哮に振動する窓ガラス、崩れ去る見慣れた風景。

そして、崩壊の先にある"非日常に支配された日常"という世界。

国会議事堂に張られたモスラの繭や、ギャオスが羽を休める東京タワーの美しさ。

僕は自分が住んでいる世界の成れの果てと、そこに至るまでの過程の美しさを見るために怪獣映画を観ていたのだ。

そして、怪獣映画にしか実現できない情景というのは、そこにあるものなのだ。

キングオブモンスターズにはそれがなかった。ドハティ監督は努力したといえる。火山の上に鎮座するキングギドラを遠景に捉えた教会のカットはまさにそんな光景を目指していたように思えた。

そこに僕の心が動かなかったのは、結局は映像がCGで、特撮じゃなかったからなのだろうか。そういう意味では僕も今や古い怪獣ファンなのかもしれない。でもやっぱり「怪獣映画ってそうじゃない」と思う。殆ど瓦礫の山と化した、元あった日常の面影すらないボストンの風景だけでは、物足りないのだ。

主人公家族の家があるボストンでの日常をもっと描写しておけばよかったとか、ボストンのランドマークの上にギドラが止まっていればよかったとか、そんな陳腐なことは言わない。僕にもそんなことはわからない。

ただ、日常の香りを残した最高の非日常を観るために、僕はまた怪獣映画を観るだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境界上のカレー

2015年2月4日午後5時13分。

ゼミの同輩たちの話し合いは長い。今日は歓送コンパとやらでゼミ官と副ゼミ官の二人に飴のブーケを贈ってやろうと秋山が言いだし皆それに乗り気になってキャンパスに集合した後渋谷まで出かけてドンキホーテで30個近くのチュッパチャップスと100円ショップで針金のモールを買ってきた。そのあとキャンパスまで戻ってチクチクと四人で手仕事をしたのだ。簡単なはずの工作はやたら難航したし、僕の不器用さはそれに50分の1も貢献できなかった。作業の間中、二人の女子はやれこんなに苦労して作ってやろうともゼミ官はたいして喜ばないだろうとか、しかし副ゼミ官の彼女はとても喜んでくれてそのあまりブーケを振り回してチュッパチャップスはすっぽぬけてどこかに飛んでいってしまうだろうとかいう機知にとんだ話をして、それは作業が終わってからも続いた。おかげで僕の予定は狂った。一次会の間時間をつぶすために見に行こうと思っていた新文芸坐の追悼フィリップ・シーモア・ホフマン&ジャン・ル・カレ原作2本立て『裏切りのサーカス』と『誰よりも狙われた男』はそろそろ席を立とうかという頃にはもう始まっていたし、池袋に出発する前に腹をこしらえて行こうと思っていた学食は閉まっていた。映画を見ることができなかったのはまあ良い。どうせ思いつきだったし渋谷界隈には上述の2作に匹敵するような面白そうな作品を上映している映画館は一つもなかった。しかし学食から締め出されたのは重大だった。時刻午後16時過ぎ。僕はすっかり昼飯難民になっていた。街は冷たかった。軒先にはこんな時間まで腹を肥やすのを先延ばしにしていたお前が悪いのだとでも僕に言うように、支度中の札がずらっと並んでいた。仕方がないので今まで一度も入ったことがないような古本屋に入って時間をつぶしたり、ガードレールに座り込んで煙草を吸いながら、こうなったら御茶ノ水まで出張って徳萬殿のチャーハンでも食って腹いっぱいになってざまあみろとでも思ってやろうかああ、でもこの時間じゃ徳萬殿ももう閉まってるかもなあ。と低回していたとき、ふと喫茶ウェストのカツカレーのことを思い出したのだ。

喫茶ウェストは宮益坂の頂上から一歩奥まったところの誰にもかえりみられないような暗い路地にある。ここのカツカレーは中途半端に有名らしく、エントランスの脇にはそのカツカレーを取り上げた雑誌が絢爛たる勲章のように張り付けてある。カツカレー1,000円サラダ付。名物カレー850円サラダ付。店内は古びて汚い。客席の一部は物置のようになっていて開いた段ボール箱が積まれているし、あの老婆は仕事がないときはそこに椅子を置いて茶菓子を頬張っているのだ。ウェストの老婆は優しくて、俺が入っていきなりカツカレーの有無を問うと、気さくに笑ってあるわよと答えて奥の窓辺の席を指し示してくれる。この老婆はこの店ににつかわしく薄汚くなっていて、灰色の針金のような髪はぼさぼさと放射状に振り乱していおり、セーターも煤こけていて怪しい魅力というより不気味な存在感を放っているのだが、その顔は不思議と美しい。すらっとした痩躯は色あせて伸び放題の髪に負けず存在を主張して、易々と見せる笑顔とあわせてある種の気品すら彼女は感じさせるのだ。だが耳は遠い。

僕が座った椅子は薄い板張りの壁と窓に挟まれて幾分か窮屈で、ほんのりとたばこの臭いが鼻を突いた。目の前の席にはいずこからかやってきた二人の男が座っていて、手前等のアプリケーションでもってどうやってユーザーに課金すべきかという話をしている。やたら声がでかいので僕は読んでいる本に集中できない。そうこうしているうちにカツカレー様が僕の目の前にやってくる。見本よりやたら軽薄な色のルーに僕は些細な不安を覚えるが、そんなことは関係ない。目の前にあったら食うという哲学は僕が生まれた時から変わっていないのだ。ライスとルーの境目にそえてあるカツ

は、分厚くて一切れだけで口の中がいっぱいになりそうである。これだ。求めていたのはこの充足感だ。繊細さなどいらない。機微など唾棄する。ただ食物で体内を征服するために、食事という行為は存在するのだと、僕は実感する。名物の名に恥じるところのない、立派にカツのカツたる役目を果たしている豚のカツ野郎である。ところがやはり邪魔者というのはどこにでもやってくる。この堂々たるカツの手前で、みすぼらしく沈殿しているルーがまさにそれだ。この惨めに薄められ、中間色に堕した見た目、さらさらとして一切まとわりつくことのない弱々しさ、融解してその主張を追憶の果てに置き去りにした具材の数々。僕はそいつらをすすりながら1時間30分の昔に締め出された学食を思い出す。そう、それは間違いなくレトルトである。やる気を感じない。それは辛うじてカレーであるだけで、カレーとして存在する意味を込められていない。カレーとそうではない粘液との境界線上、そのギリギリカレーと認識できるところに穿たれたピンである。

しか勿論、僕はそれを食う。大体、僕にとってはこの喫茶ウェストにくること、ここでこのカツカレーを食うことに意味があったのであって、美味いか不味いかなどもはやどうでもよかった。高校生の頃、僕は友人二人と連れ立ってこの店先で高校生らしいやり方でどうすりゃええんだ入るべきか入らざるべきかという議論を繰り返し、結局餃子の王将にしようという発想の飛躍を得ことがあった。この店に入ろうという提案をしたのは僕だったが、それが却下されたところでまあいい、またひとりでくりゃいいや、とその時は軽く考えていたのだった。先延ばしにしたことをふと思い立ちやり遂げることは、こと僕に限っては格別の感慨がある。大体僕はなんでも先延ばしにしてばかりなのだ。先へ先へと送っているうちに、物事は僕の手の届かないところまで遠ざかって行ってしまう。今度買い占めようと思っていた古本屋は潰れ、後で聞くことにしたアルバムは廃盤になり、いつか読もうと決めた小説は題名を忘れる。僕は堂々たるカツと裏切りのような味のルーを口に含みながら、遠い過去の僕にあのふがいないときの僕に、確かにやってやったぞ。お前の無念は果たしてやったぞ。と呼びかけていた。

ウェストの老婆は耳が遠いので、僕は自分で灰皿を見つけ出して一服していた。男たちの声は多少おとなしくなったものの、まだ読書には少々煩い。これならいったんキャンパスに戻って図書館にでも籠ったほうがましだと思って、僕は喫茶ウェストを後にすることにした。これから僕をゼミから破門した教授が一次会を去り、2次会が始まるまで4時間近く時間を潰さねばならないのだ。