社築カレー

レシピ

上記レシピにフォンドヴォーとクミンシードを追加。ルーはジャワーカレー4年物。

 

夏野菜としてナスも投入

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何故か豚肉を2種類購入

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肉とニンニクは20分くらい炒める。

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今回は玉ねぎの炒め時間を短めにした。

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水とすりおろしトマトを投入

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流し台の下で4年間スタンバイしていたルー。

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結実

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オイスターソースと豆板醤のおかげでIQが低下したジャンクな味になった。

フォンドヴォーもなんとなくコクの変化に寄与している気がする。

あと玉ねぎのトロトロ具合はあまり美味しさと関係ないのではないかという気がした。

 

以上

 

独りじゃない音楽

 下北沢にて行ってきた

r>12/7(土)8(日)開催<br><br>THEラブ人間決起集会<br>『下北沢にて&#39;19』<br><br>◆前売チケット<br><br>イープラス<a href="https://t.co/bUc3oSv24J">https://t.co/bUc3oSv24J</a><br><br>ぴあ(Pコード 166-916)<br>ローチケ(Lコード 73947)<br><br>各会場<br>出演者手売り<a href="https://twitter

夕方四時の下北沢駅東口に降り立つ。

黄色から紫にグラデーションされた空の中、ピンクのクレパスで塗ったような輪郭のないドコモタワーが遠くに浮かんでいて綺麗だった。

そもそも前日の夜にふと「そういやパブリック娘。ってグループに昔ハマっていたな」と思って、You TubeTwitterを漁りだしたところ当の彼らが今日下北沢でライブをやるというのだ。

職場や家を変えて気分が落ち込んでいる僕は、運命というかタイミングの巧妙さを感じて気づいたらチケットを買っていた。

目的はパブリック娘。だけだったが、折角来たので適当に他の箱を覗き見だけして、あとは喫茶店で本でも読んでいようと思っていた。

ところが最初に立ち寄ったshelterってライブハウスのバンドにやられてしまった。

 

hinto.org

太いグルーブとテレキャスターのパキパキしたリフ。なんだ、なんか溜まっていたのか俺?と冷静を装おうとする理性を余所に、気づいたら滅茶苦茶に体を揺らしていた。学生時代でもそんなにノることはなかったのに。

その後に続いたのも凄いバンドばかりで、すっかりその時間の虜になってしまった。

その変なテンションを引きずったままパブリック娘。がトリをつとめる箱へ。

 

8時半のTHREEは客足がまばらで、日曜日の夜にみんな気分が落ち込んで誰も音楽なんかに興味をなくしてしまったんじゃないかと思って物悲しかった。

パブリック娘。はそんな閑散としたクラブの中でテストをしていた。

大学生だった頃に行った秋葉原のmogra以来かもしれない。

既にshelterでワケワカラン気分になっていた僕は彼らの予行演習のサウンドに首を振っていた。

僕はこういう時は楽しさより気恥ずかしさが勝ってしまう性格なのだが、何故か今日だけは違った。その日2杯目の酒が回っていたのか知らないが、そのせいにしておこう。

少しずつ客も集まりだしてライブが始まると、色んなことを思い出した。

今はもう連絡も取らない友達と通った渋谷のクラブ。いろんな色の光が僕や皆の体を突き抜けて行った。初めて会ったのか久しぶりなのかわからない同世代のヤツラとの会話。耳鳴り。吐き気。そして早朝の渋谷を歩く浮遊感。

ここ数年、音楽を聴くことは僕にとって映画を観たり本を読んだりするのと同じ、内省的な行為だった。

サウンドから、歌詞から自分が何を感じ取るかを通して自分と向き合う。

独りで聴くのが音楽だったし、音楽との出会いだってそうだった。それでずっと僕は良かった。

ただ、僕の人生でもそうじゃなかった時期があったんだと思い出した。

誰かと気分を共有できる、言葉を介さなくても互いに通じるなにかを、音楽を通して持っていた時が、確かにいつかどこかであった。

だからって明日から仕事をガンバロウと思えたとか、気に入らない部屋が少しステキに見えてきたとか、そんなことは全くないのだが、何か悪くないものが僕の一部を満たしていた。

最後の曲"そんなことより早く、このパーティーを抜け出さない?"を聴きながらそんなことを考えていた。

 

ちょっとした高揚感と気恥ずかしさを抱えながら夜の下北沢を歩くと、腰の痛みに気づいた。久々に飛んだり跳ねたりしたせいだ。

27 にもなってはしゃいだりするものじゃない。

 

下北沢トリウッド

午前1時29分

 

アマノジャク・思春期

www.amanojaku-sishunki.com

受け口の子供が悩んだり喧嘩したり走ったりする映画。

俳優は基本的に全員大根。それ以上にト書きをそのまま読み上げさせているようなぎこちないセリフが芝居から生命力を奪っていた。

ただし主演の子供の演技にだけは圧倒される。ほとんどセリフらしいセリフを吐かないのだが、同級生や家族に責められているときの所在なさげな体の動きは迫真。子供を責めるタイプの親を持っていた人なら必ず心をえぐられるだろう。更に大半のシーンで顔をマスクで覆っているのに、目の芝居だけで感情を雄弁に表現している。怒りと恥と悲しみと自己嫌悪を同時にたたえた眼差しを放てる小学生に鬼気迫るものを感じた。

作中では主人公に救いは訪れない。家庭環境は悪く、クラスメイトからは疎まれ、教師には腫れもの扱いされ、弟からはそんな兄であることそのものを責められる。いじめっ子だけでなく親まで人格に問題を抱えており、理解者は誰一人としていない。

主人公を取り巻く環境の底意地の悪さが物語にとって理想的に主人公を追い詰めていく。

やくざ映画のように綺麗にマウントをとる子供の喧嘩や、まるで大人の視点を持っているような小学生の悪口は、主人公に降りかかる災難が作り物で、「大人が想像する子供の受難」であることを浮き彫りにする。

もしこの映画が「特殊な身体的特徴を持った子供の苦難」とか、「普通から外れてしまった人間の疎外感」だとか、そういうものを訴えようとしていたのならこれは大きな失敗だ。

苦悩する主人公に対し、周りの人間のしつらえられたような性格の悪さがあまりにもわざとらしく、作中の出来事の現実感を削いでしまっているのだ。現実にありうる問題を描いた作品として戯画化・寓話化がいきすぎていて、確かに身近に存在するはずの問題がずっと遠い距離にあるかのように見えてしまう。

 

というようなことを鑑賞後に考えながら劇場の廊下を歩いていたらキャッチコピーを見て驚いた。

 

「その子はクラスから仲間外れにされるのを、自分の受け口のせいだと思っている。」

 

この子がクラスから仲間外れにされるのはこの子の受け口のせいではないのだろうか。

主人公はコミュニケーション下手で(無口なうえ何かを話しても聞き取れない)、性格も暗く、ほかの子供から見れば理解できない行動に及ぶだけでなく、トラブルを起こすことも頻繁にある。主人公が抱えるこれらの人格上の欠点のほうが問題で、現にクラスメイトから受け口を馬鹿にされていることや、自分の目の前で親に厄介そうに受け口の治療の話をされるのは、些末な問題だというのだろうか。

主人公が自分に対する侮辱や暴力から身を守るために、またはそれらに対する報復として暴力をふるうことを、僕は全く悪いことだと思わない。

そもそも主人公がその地点に追い詰められていったのは受け口を蔑む周囲に原因があったのではないのだろうか。

社会的な一般論ではまず暴力の前に話し合いがあるべきだとか、親や教師に相談すべきだとか言われるかもしれないが、小学生相手に論理的な話し合いなんて成立するわけがない。主人公が起こすトラブルのせいで教師がけがをするシーンもあるが、それは主人公が抱える問題に無知であり、いじめを止めることができなかった教師が払った代償でもある。

言葉も大人も自分を守ってくれないなら、恐怖か痛みで自分を守るしかない。敗北者であることを受け入れられないのなら、被害者は2人目の加害者になるしかない。

または、監督は「身体的特徴なんて本人が気にしなければ大した問題ではないし、堂々としていれば次第に回りも変わっていくのだ。それを気に病んで周囲から孤立するのは愚かなことなのだ。」とか寝ぼけたことをこの映画を通して伝えていたのだろうか。

この映画が訴えようとしているのはそんなことではないと僕は思ったし、結果的にそうではなかったことが監督自身のプロフィールから判明するのだが、上述の「主人公を取り巻く現実が非現実的なまでに最悪なこと」と併せて考えるとあまりにも皮肉なフレーズだ。

更にポスターを読んでみると、監督自身が子供時代に受け口であり悩んだ経験があったのだという。つまり、主人公を取り巻く環境の無理解や劣悪さはある程度監督本人の実体験に即しているということだ。

一応、主人公のコンプレックスの根源は親の配慮の足りなさから始まっていることが描かれている。冒頭で医師から子供の受け口の治療に手術が必要なことを知った親が「ちゃんと口を隠さないと同級生に馬鹿にされるよ」と子供に伝える。子供は自分の口を隠すようになり、それが周囲の嘲笑や侮蔑に発展していくという流れになっている。

「そのようなコンプレックスを周囲が子供に与えてはいけない、そんなことをしたら子供は自分が抱える問題の原因が自分にあると思ってしまう。」というのがメッセージなのだとしたら、それは些か個人的すぎると僕は思う。

何故なら、身体的な特徴が批判や侮蔑の対象でない等というのは、今や自明の理だからだ。監督自身の怒りには僕はあまり興味がない。

物語におけるリアリティとは、感情よりも理性を通して実現される。物語の中で起こる出来事が過去に実在したことであるかどうかよりも、その物語の世界に存在する正義と悪が公平に描かれているかが重要だと、僕は思う。

 

 

COCOLORS

gasolinemask.com

 今日見た映画の中ではまともすぎた。

 

薄暮

www.hakubo-movie.jp

ある程度楽しみにしていた作品。

起伏のない淡々としたストーリー、所謂アニメ的記号表現を使わない抑制された演出、あと作画が省エネなところ…は大好きなJust Because!に似ていたが、こちらは「日常シーンで見せる」といえるレベルには達していなかった。

素晴らしいロケ地の美しさを表現するには作画が平凡すぎ、人物の芝居に目を見張るようなものもない。物語も淡々としたまま観客の手を引くことなく勝手に進んでいき勝手に終わっていた。

 

 

バイオレンス・ボイジャー

violencevoyager.com

正直開始直後に席を立とうか悩んだくらい82分間付き合うのが不安な作品だったが、最終的にはなかなか面白く見られた。

正直内容についてあまり語ることはない。悠木碧の演技万歳。

この作品はインパクトがありすぎるのでトリに持ってこないでほしかった。薄暮やCOCOLORSの印象が上書きされてしまった。

 

 

 

 

 

まとめて映画感想とDMM半額キャンペーン

0時48分

最近文芸坐で観たやつ

 

忍ぶ川  (1972年)

自分の人生に常に死を思い描きながら生きてきた男と、望まない婚約と死を間近に迎えた父親の間で揺らぐ女性とが出会って…的な話。

主人公とヒロインの人生に背負う影と閉塞感が2人の出会い、そして結婚によって克服され、謂わば2人が新たな人生、生まれ変わりを迎えるというストーリー。

古い東京風情を残した70年代の深川近辺のロケが素晴らしい。

それにしても主人公のキャラクターがキモい。ヒロインと一緒にいてもニコリともしない、自分から話しださない、何か言われても「そうかい」「ああ」しか言わない。生い立ち上ふさぎ込んだ性格になってしまったという設定なのだとしても、典型的なムッツリ童貞野郎である。その割にはヒロインを「僕はどうだい(キモい)」みたいなノリで口説きに行く積極性はある。

それにしても120分が異様に長く感じた。婚約者の件で主人公がヒロインを疑うパートとか、新婚初夜とかあんなねっちり描く必要があったのだろうか。痴話喧嘩パートなんて主人公のナチュラルな童貞セクハラ発言でキモさが倍増していたし。

 

サンダカン八番娼館 望郷  (1974年)

大地の子守歌」系の"やりすぎなまでに過酷な登場人物の運命に観客が置き去りにされる"タイプの映画かと思いきや、登場人物の半生を通して真摯に日本の戦中戦後史を見つめ直す映画だった。若いころのおサキさん綺麗でいいね。

なにか衝撃を受けるたびに管弦楽器音が「ババァーーン」って響くキャラクターの感情演出がいちいち大げさでウケた。

 

生きる (1952年)

もうセットだけでお腹一杯になれるくらいかっこいい。

花とアリス殺人事件」のカフェテリアのシーンはこの映画のオマージュだったんだね…。一つの画面を通して二つの系列の出来事が並行して進行していく手法、漫画にも影響を与えたんじゃないだろうか。小説では実現できない現象。

 

神々の深き欲望 (1968年)

現代日本における地方の土着生活を通して世界創生神話の再翻訳と多分現代社会批判を同時に成立させようとした意欲作、というか欲張り作?

実の妹との情事を指して「神様の真似事なんてできねえ」という台詞には目が覚まされる思いがした。

東西の神話の典型である人類の起源は一組の男女であったというフォーマット、そして神話の世界で頻繁に行われる近親相姦。それが世界の創造の為に特別に許された禁忌だとしたら。近親相姦によって生れ落ちる子供が何らかの欠落を持つのだとしたら、「最初の男女」の子孫たる人類は皆何かしらの点で狂っているのではないかという疑問。そして、禁忌を犯すことが罪であれば、残された子孫はその生をもって自分たちの父母が犯した罪を未来永劫に渡って贖いつづけているのだろうか。

作品内では離島に暮らす人々の独特の慣習、信仰が主要な登場人物に対する受難として描かれている。都会からやってきた会社員精神あふれるサラリーマンにもそれは降りかかる。

この映画では現代社会と原始的な自足自給社会を一元的な対立構造に捉えておらず、古くから続く風土や土着信仰を無垢で清浄な存在として扱っていない。むしろ島民の村社会を通じて現代社会の人びとが織りなす二元模様の不合理さ、政治の空疎さや集団心理の醜悪さを表現しようとしたのだろう。主役の太一家と技師に対してもそのフラットさは徹底しており、被害者的に描写される彼らですら醜く粗野で狂気をはらんだ弱い人物像が与えられている。

この映画には快活な登場人物というものが存在しない。フィクションにおける魅力あるキャラクター造形をあえて避けている。それがこの映画に対して観客が愛着を抱くことを拒んでしまっているのだが、神話における神や英雄が必ずしも典型的なヒロイズムを備えていないことと符合しているようにも思える。

しかし劇中の出来事や登場人物の不条理さや醜悪さが強調されたあまり、現代社会への批判的メッセージとしてはかなり冷静さと公平さに欠けてしまったように見受けられる。

 

楢山節考  (1958)

姥捨て山の慣習を映像化した作品。撮影が全てセット、音楽は浄瑠璃長唄、三味線のBGMで一貫しており、劇中歌の歌詞も直接的に画面の情景を歌ったものになっていることでスクリーンの中の世界が作り物であることを意識させられる。それにしても昔話・時代劇的な日本の田園風景と三味線のサウンドは必ずしもマッチしない。三味線の音色がしっくりきたのはラストの白骨が散乱する楢山のシーンくらいじゃないだろうか。

「神々の深き欲望」に引き続き、村社会の慣習とその中で暮らす個人の衝突、つまり集団と個の対立が描かれる。ただし楢山節考では「個」たる息子と母がヒューマニズムの象徴として捉えられている。

形骸化した慣習の不合理さ・集団心理の非情さと個人の対立というテーマは個人主義が当たり前になった今やっても古臭さしか感じられないだろうが、それが過去のものとして扱える分人間は進歩しているのかもしれない。

 

 

関係ないけど、DMMで半額セールになっている電書エロ漫画のラインナップが素晴らしすぎる。

大横山飴の「落ちない雨」は紙のも持っているけど買っちゃった。

きいろいたまご作品はもちろん、べろせの「べろまん」、佐骨の「フォトグラフ」、大塚麗華の「みだらぶ」も良い。勉強になった。ふたりがけごはんのヒロイン可愛すぎ。

 

book.dmm.co.jp

 

 

泥の河/砂の女

午前1時3分

 

今日は天気が良く自転車で池袋に行けた。

 

新文芸坐 - キネマ旬報創刊100年記念 キネ旬ベストワンからたどる昭和・戦後映画史

http://www.shin-bungeiza.com/pdf/20190707.pdf

 

泥の河

凄い。単純に圧倒された。画面に映るすべてがかっこいい。いつもそうなのだが素晴らしすぎる作品に出合うと"良い"という言葉しか頭に浮かばない。ただただ絶句してしまう。

この映画にはいくつかテーマが設けられていて、子供同士の出会いと別れだとか、戦後の日本が抱えた問題だとか、子供が「大人になること」を意識することだとか、どれも丁寧に表現されていて十分素晴らしいのだが、それらのテーマが些事に見えるほどの圧倒的な情景が画面に描かれていた。

文字通り町と工場の汚れを飲み込んできたであろう(多分)安治川の濁った流れ、白黒スクリーンでもはっきりと伝わる暗澹とけぶった空の色、軋むトタンと傾く床板 - それらに囲まれた風景の中にたたずむ煤けた頬の子供たち。

この光景に胸打たれない人間はいるのだろうか。いやいないだろう。僕が生まれた土地が東京の旧工業地帯だからとか、昔大阪の安治川近隣に住んでいたからとか、小さいころ明日のジョーが好きだったからとか関係ないはず。いやない。あらん限りの力で訴えたい。これはすべての日本人の心象風景だ。

(関係ないと言えば安治川の九条-西九条を隔てるポイントにはとても珍しい川底を横切るトンネルがある。エレベータ付きで自転車も通れる。味あり過ぎ。)

情景だけでなくディテールにしつこい程凝っているのもため息が出るほど素晴らしい。

きっちゃんが着ているタンクトップの丈の長さ(貧乏描写としてリアル過ぎる)とか、突然流れはじめる赤胴鈴之助の歌とか、棚に並ぶいちいち貧乏くさい瓶・缶の類。僕を喜ばせるものしかこの作品のフィルムには焼かれていないのだ。

きっちゃん姉弟のためにのぶちゃんがサイダーをくすねるシーンや、廊船とのぶちゃんの別れのシーンなど、感涙物の場面にしようと思えばしてしまえるのにあえてドライな展開で終わらせてしまうところも良い。

 

物語に目を向ければ、この映画は断絶の話だ。生と死。充足と窮乏。大人と子供。二つの世界の狭間に流れる断絶が徹底的に描かれている。片方の岸にいる者には、隔てられたもう片方の岸にいる者の世界を思い描くことはできない。

荷馬車引きのおっちゃんや河さらいの老人の死は確実に幼いのぶちゃんに「死」という未知の概念を知らしめたであろうが、それが若すぎるのぶちゃんに実感を伴うってもたらされたかどうかは眩しそうに眉をしかめる彼の表情からは読み取れない。生の真っただ中にあるものにとって、死は目の前に現れてもなお現実味を帯びないものなのだろうか。

客観的に見て裕福とは程遠い暮らしをしており、学校では友達にテレビを買ったことを自慢される立場にあるのぶちゃん家族ですら、定住の場所さえないきっちゃん家族との間に覆しようのない貧富の差が存在する。

それらが特に子供の目線から語られていく訳だが、こと子供と大人の隔絶については断固とした線引きがされているように思える。

この映画は子供が大人になる過程の物語ではない。「信雄が成人するまであと11年ある」と父親がひとりごちるように、わずか9歳の主人公には物語が終わった後も子供としての人生が、幼年の時間が流れていくのだろう。作品の中でのぶちゃんが体験した出来事は確実に彼の人格に影響を与えるだろうが、それは即座に彼自身に心理の変化を予期させるものや、ましてや実感させるものではなく、おそらく彼が大人になってからふと思い出したり、彼の人生に時に光で照らし時に影を投げかけたりするようなものなのだろう。

何かの契機や節目ではなく、人間の心の奥深く底の方を流れる風景。泥の河で映し出されるのはそんな世界だ。

子供と大人の隔たりでもっとも顕著なのが、きっちゃんの母親の部屋をのぶちゃんが訪れるシーンだ。それまで声でしか存在を描かれなかった母親が一人座る部屋は、まだのぶちゃんが知らないであろう外国の女優のポスターや化粧品で彩られている。

そしてその中で微笑をたたえる母親は、この映画で唯一といって良い美意識的な意味での「美しさ」を備えた存在だ。

河も橋も建物も人も、すべてが灰色に薄汚れた世界の中で、白い和服を着こなし髪型を端正に整えた美貌の母親(この映画ならやつれた中年のおばはんが出てくるんだろうと正直思っていたが、ここは観客にこびてくれてよかった。というか美女を否定する理由など映画を観るうえで存在しない)。そんな美しく触れがたいような存在が見知らぬ男の身体の下に組み敷かれ髪を振り乱し嬌声を上げるシーンで、物語は終わりの始まりを告げる。

窓の外から事態を覗くのぶちゃんの視線を捉えた美しい母親の目からは言葉にできる感情を読み取れない。悲しみも怒りも罪悪感もたたえない目は、ただ子供にありのままの現実を、どうしようもなく現実がそこに存在することを見せつける。

それは子供にとって謎に包まれた存在であった大人の正体を暴くものであったし、大人とは、現実とはこのようなものであるという一面を見せつけることによって、両者の断絶を大人の側から告げるものであったように思える。

 

とにかく物凄い衝撃、−戦後から70年代にかけての希望と不安と貧困と怒りと混沌をかき混ぜて、凝縮して、それを手のひらに爪が食い込むほど拳に握りしめて顔面にめり込まされるような衝撃‐に襲われるような映画だった。

 

砂の女

これも物凄い作品だったのだが泥の河がそれ以上に凄すぎて正直あまり語るところがない。オープニングからタイトルにかけてが異常なカッコよさ。

それにしても2時間半という尺の映画を前にして、一瞬一秒たりとも気が散りませんでした、終始映画の世界にのめりこんでいられましたという人はいるのだろうか。というかそれだけの長尺の映画を眠気を感じることなく最後まで観られる人っているのか

しかもこの映画殆ど場面同じですよ。