2014年11月3日

午前3時4分。

CNNウェブサイトにて閲覧 “ボコ・ハラム指導者、停戦合意を否定”。隣にリンクされている記事は“「最もセクシーな女性」にペネロペ・クルス 米誌が選出 ”、“超巨大!600キロのサメ”。

ボコ・ハラムはナイジェリアのイスラム過激派組織。現地語で「西洋の教育は罪」を意味するらしい。現地の学校を襲撃して女児を連れ去り、隣国カメルーンなどで売り渡されるか、イスラム教化され、強制結婚、コーランの暗記をさせられる。

 

今日は富野由悠季オンリーイベントのために千駄木から歩いて茗荷谷まで行った。白山駅近隣のレトロなおもちゃ屋のほかには道中面白そうなものはなかった。茶色い壁紙のさびれた会館の一室行われたイベントで、小規模なのでさして活気もなかった。スクリーンに映し出されているTV版イデオンを疲れた様子の客が数人壁にもたれかかって眺めているという一種異様な光景だった。参加費500円無駄にしたかと思ったが、売り子の女性が湖川友謙の在廊を教えてくれた。手を震わせながら近寄ると、お知り合いと思しきお姉さんが僕を促してくれる。入場券代わりの500円のパンフにサインをお願いすると、合同誌の購入を勧めてくれる湖川先生。流れるままに2500円支払う僕。緊張しすぎて名前が思い出せず、キッチ・キッチンを書いてくださいとお願いできない僕。湖川先生は最後に僕の手を握り、パワーを送ってあげようと言って強く二回振った。湖川先生は拍手に送られて会場を後にした。西日暮里までは遠回りして歩いた。道すがら合同誌をめくってみると、値段に違わない豪華な参加メンバーだった。

その後地下鉄で新御茶ノ水駅まで至り、神保町ブックフェアに。青土社ユリイカ三冊2000円、創元社佐々木丸美という作家のミステリ4冊、“シカゴよりこわい街”に1300円散財。今日の午後また寄ることになるだろう。

2014年9月9日

午前4時25分

やっとというべきか、昨日はとうとう綾瀬に行って来た。いつか買い込みをするために帰ってこようと監視員のバイトを辞めた日に決意してから、ゆうに4年は経ってしまっていた。ブックオフ、エンターキングは健在だったのでそこだけで8000円以上という馬鹿のような金を使った。ところが問題はそのあとでメダロットが置いてあったガード下のおもちゃ屋、及び古本屋2軒が新しいテナントに入れ替わっていた。行こう行こうと思って4年間も放置していた自分に腹がたつが、何より辛いのはこの喪失感だ。メダロットが買えなかったこともさることながら、あのプールからの帰り道沿いにあった古本屋がなくなったのは悲しい。月日は僕にとっては残酷なもののようだ。代わりといってはなんだがすいすいらんどの更に左手、つまりバイトをしていた頃の僕の行動範囲外に別のかなり大きめな古本屋があることを見つけた。件の古本屋がなくなったことがショックすぎて「ああ、ここに移転してたのか」などと都合のいい発想をしたが、店員さんによると全くそんなことはないらしい。もう辛いので寝る。おもちゃ屋の店主さん、定価でいいのであのメダロット僕に売ってください。

ブラックマジック M-66 アニメ版に寄せて


原作未読でアニメ版を観るという僕の行動規範の中ではややマズいことをしてしまったのだが、機器がないのでBS録画出来ないし、原作BOOKOFFに置いてないし、ということで結局生で観るしかなかった。

と一通り言い訳を済ませて、まず感想から。


一言で言うとメチャクチャ面白かった。やっぱり。士郎正宗の作品にはサイバーパンクとか、生命倫理とか、国際政治とか、その他無数の薀蓄とか、、、と語られるべき、そして語られ尽くしたことが一杯あるんだけど、シロマサ作品のほぼ全てが追体験にしかなり得ない、所詮若輩士郎正宗ファンの僕にとって、それに今さら触れるのはやや無謀だし、そういうのが得意な人が色んなとこに沢山居るのを知っているから、それは他人に任せる。

勿論そういう雑多な事柄も僕にとっての士郎正宗の魅力だし、そういうのを全部かき集めて総和を計ったら、やっぱりその辺りの要素が僕の士郎正宗好きさの大部分を構成しているんだと思う。ただなんとも情けない話だけど、僕にとっての士郎正宗作品の1番の良さは、それが持つ一つのお話としての面白さにかかってくると思うのだ。このアニメ版ブラックマジックは、そういう意味での士郎正宗作品の魅力を僕に再確認させてくれた。(アニメという媒体のせいもあるが)伝家の宝刀の、1コマ当たりの情報量とか、薀蓄とかの面での魅力というのは少ないのに、そこで逆に士郎正宗の作劇というか、話づくりの上手さが浮き彫りになってくることで、一つの良質な体験を提供するという、謂わばエンターテイメントの約束をバッチリ守ってくれている。特に方法論じみた観点から語ることはできないんだけど。

道路上の戦闘シーンの超作画とか、アニメとしての見どころは他にもある。だけどもっと根本的なところでこのアニメの面白さを支えてるものがあって、それは軍隊のカッコ悪さと頼もしさの両方がしっかり描かれてるところや、名前も出ない女将校にグッとくる台詞を吐かせてくること等であって、それがミリオタとしてのシロマサが描く軍人への愛なのか、それとも作劇に深みを出すためのシロマサの技術なのかは知ることができないけど、こういう作品そのものが持つディテールの細かさが、まんまと僕を物語にのめり込ませるのだ。


それと、このタイミングで書くべきではないのだろうけど、どうしても書いておきたいこと。アニメだからこそ活きる演出について。冒頭の、ペンを引き抜いたせいで紙の山がドサドサ崩れ落ちる場面。全然話の上では必要ない演出なのに、こういところで言葉にならない様な作品世界への親近感というか、アニメが持つ生命力、ひいてはそれを作品に吹き込んだ人の世界観、視線というものを感じられたときの快感は、半端じゃない。同じ様な感覚をジブリアニメや世界名作劇場を観てると覚える。あろうことかキャラクターが、感情の細かい動きに揺さぶられてあらぬ方向に顔をむけたり、何気ない細かい動作をミスってみたりしているのは、結局は終局に向けて進むという、ストーリーを進行しなければならないアニメという媒体の宿命を超えたところで、(つまりストーリー進行に関係がないところで、ということを僕は言いたいのだけど上手く言えないのでわざわざカッコを使って説明する。)作品の魅力を構成している。この感覚を、とりわけアニメで顕著に感じるのは、単に僕がオタクだからなのか、それともアニメという媒体そのものが結果的に持つ性質が、よりストーリー、つまりヤマだのオチだののクオリティに依存している(ように見える)からなのか。今判別することは出来ないが、一つ言えることは、上述のような演出をもし映画でやっても、そこまで映えやしないということである。上述のような演出は、もしかしたら映画に起源というか、アイディアの源泉を持つというか、アニメのクリエイター達が意識的にまたは無意識に輸入しちゃったんじゃないかという可能性は高いが、やはり特にアニメで、この演出の良さは現れる。それは結局、現実を映し出すのではなく、ほぼ純粋に内側からのアウトプットであり、手工芸製品たるアニメが原理的に持つ、心だ命だ魂だというものが"吹き込まれる"現象によるものなのだろう。



一方で、このアニメ版ブラックマジックに対する物足りなさも少なからず感じた。それは畏れ多くも、このアニメの主導権を完全にシロマサが握っていたことに起因するのではないかと思ってしまうのだ。

勿論のこと士郎正宗は、アニメ、映画、漫画の違いについては僕なんかより遥かに熟知しているはずだ。今さらこのアニメ化を通してシロマサは何がしたかったんだろうと?マーク浮かべるのはナンセンス極まりないかもしれないが、それでも言いたい。あのバタ臭さはなんだ。カメラワークとか、場面設定とか、やたらスリルの連続小出しをしてくるところとか、完全に一昔前のハリウッドホラー映画だったぞ。特にラスト直前のビル内での逃亡劇。あそこら辺で"俺は今木曜洋画劇場みてるのか?"と錯覚しそうになった。榊原良子若本規夫のボイスアクトが、余計にその印象を際立たせていた。明らかに、アニメという表現方法で、シロマサは当時としてもおそらく既存だったであろう、正統派サスペンス映画を作ろうとしていたのではないかと邪推してしまう。万が一この推測が間違っていなかったとして、アニメにそれを求めている人はいるのだろうか?

シロマサが海外刑事ドラマや戦争映画から創作アイデアの多大な部分を引き出しているのは周知の事実だし、それを漫画でやってくれる分にはこちらとしては素直な感嘆の気持しか出てこないのだが、ことアニメというプラットフォームで出てくると、幾ばくかの落ち着かなさを感じざるをえない。断っておくが、僕はこの演出にNOを突きつけているわけではなく、あくまで違和感レベルの、居心地の悪さを覚えただけである。ただこの演出のせいで鑑賞中についつい笑みがこぼれてしまう瞬間が何度かあり、果たして観ていて笑えてくるような演出とはどうなんだろうと疑問に思ってしまうのである。

先に書いた通りこれはアニメなので、原作にあるようなコマ外の注釈とか、薀蓄に富んだ後書きによる、士郎正宗"ならでは"の作品への肉付は、味わうことができない。それは時間や、テンポという制約を受けることのない、漫画という媒体だけの利点であって、じゃあ、アニメでは何を付け加えることができるだろう、という挑戦の結果が、あのアクション映画みたいな演出なのだろうか?原作で見られる、知的欲求を満たしてくれるあの素晴らしい追加的要素の代替が、この観ていて不快感など感じないにしろ、ある意味の親しみを伴う滑稽さで、果たしていいのか?

なんか調べてみたら、シロマサはコンテ切っただけで、監督業にはほとんどタッチしてないという情報が。だから何か意見が変わるというわけではないが。

しかし、やはり総括していえることは、そういう違和感も含めて、"ブラックマジック"は最高のエンターテイメントであったということであり、そのフィルターを通して、作者の視線にそって見える世界を、その世界への愛情を、僕も拙いながら体験できたのである。


追記:やはり作品の面白さと、割りと忠実に再現された士郎正宗キャラクターが動いていることへの感動と興奮にあてられてか、いつも以上にメタクソな文章になってしまっている。これでも一度見直して手直ししたのだが、処置不可能なレベルで崩れている。今回ある程度くだけた語調で書くことに挑戦したのは、僕自身のために、この記事が読まれたときのハードルを下げるためだ。といってもこのブログの読者は僕自身をおいて他にはいないので、要するにいつかこの記事を読み直すことになったときの、この文章の至らない部分にたいする僕自身の落胆や、不快感を和らげるためだ。焼肉とか、日記とか下らない物事に対して堅苦しい文章を用いるのはある意味の冗談っぽさを持たせるのに貢献する一方で、アニメ、とりわけ士郎正宗作品の様な僕の中である程度の神聖さを持っている話題に真面目な語り口で臨むのは、やはりその話題と語り口に釣り合うだけの含蓄というか、内容の豊かさを必要とするのであって、ところが僕の文章(≒僕の頭の中)にはそれ程の中身はないのだ。そこで有る程度くだけた、"いや俺はこう思うんだけとね"的なニュアンスを漂わせるための文体が引っ張り出されてきたのである。

そして、この追記自体も、後日このエントリーを読んでいることになるであろう未来の僕への、言い訳でしかない。








炭火焼肉ピカソ

午後11時40分。

肉とは不可思議なものである。いくら食べようと、あれだけ摂取しようと、どれ程食べた直後に後悔し、もう二度と食わないと誓おうと、翌日にはまた吐く程食べてやりたいと思っている。


焼肉を食いたいという密かなフラストレーションは、二週間ほど僕の中で胡座をかいて不満の声を上げ続けていた。資金がなかったわけではない。別段忙しかったわけではない。ただ、人間が物事をなす時の支配的な要素;効率や便益などの実利的な要素とは種を異にする、むしろそれらの要素に対しては、考慮すること自体が妨げでしかない側面ータイミングというやつがここ数週間なかっただけであり、それが今日、素知らぬ顔でやってきたのだった。


"炭火焼肉ピカソ"は卓越した店ではない。名店という呼び名はそこには相応しくない。そこは市井の店であり、顔を持たない大衆の店である。

けだし焼肉を食べるとき、人は何を求めるのか。良い時間を、笑顔を湛えて過ごせるひと時を望むのか。格別の味を愉しみたいのか。それとも日々の労働の対価を、そして翌日からの無明の精励への原動力を、それに求めているのか。僕は違う。ただ、肉を食いたい、飽きれて後悔する程肉を噛み切り、咀嚼し、飲み込みたいという原理的な渇望を満たすために、焼肉を食べるのである。この根源的欲求を、それ自体に似合った粗野で飾り気のない形で充足させてくれるものを、僕は焼肉以外に知らない。

ここまで僕たちは焼肉を食べることの目的について、概ね合意することができた。ではその目的を純粋に遂行するために、焼肉には何が求められるのか。それは圧倒的な廉価と、途方もない物量である。"ただ肉を食べたい"という懸命な希求に対し、上等さだとか、安全さだとかは、野暮な飾りでしかない。つまりそこで食べる肉は、砂のような物だろうと、ブロックのようだろうと、輪ゴムのような物だろうと、どうだっていいのである。つまり大量に食べることができる、その目的を経済的な観点から解決するための安価さが約束されることが、ここでは求められている。

炭火焼肉ピカソが、市井の店であるのは、市民の希望にもっともそう形で、この目的への解法を供給しているからだ。一皿100円〜。もはや開き直りすら感じるオファーは、需給法則というオモチャを果敢に破壊する。安さには何らかの理由が必要である。それは余りの安価さが僕達に連想させる危険や、不安を解消するためではなく、この店、ピカソがこれからも健全に存続して行くこと、この最良の供給の担い手が僕達の必要に答えるという約束が守られていくために必要なのである。

その帰結(の可能性)のひとつとして、それでもまだ先程あげた安価さとは不釣合いではあるのだが、この店には給仕の店員が1人しかいない。故に、店内は恒常的に繁忙の様相を呈している。例のオモチャを踏みにじってしまったが故の需要過多。1人で抱え切れることがどの程度に不可能であるか、僕達が想像することが難しい活況の中に、その孤立した店員兄君はいる。この盛況の中にあっては、彼が並の人間ならば、自然に彼の顔から笑みは消えるべきであるし、そのことについて僕達は、一片の不快感も心に差し挟まないだろう。しかし今晩、彼はとうとうその柔和さと快活さを放棄することがなかった。それは接客業故の義務という唾棄すべきマナーを守ることへの適宜性を超え、見ている者を感嘆させるほどの姿勢だった。

先程言及した事由のもう一つの帰結を、ただ事実として、一切の価値判断を含まない、純粋に中立公正な報告として、挙げなければならない。この店の肉は、薄い。ここで、邪推と好奇心を伴う無垢な悪意を豪ほどでも持つ人、つまり標準的な人間である方は、こう想像する筈である。つまり、この店の持つ利点と、欠点は、その度合いにおいて釣り合うべきであると。言い換えるなら、人がこの店でみる肉の薄さの過剰なことは、一皿100円〜という安さの途方もないことに匹敵する筈であると。残念ながら、(そして誇らしながら)その嗜虐心に僕は応えることができない。何故ならこの店の肉の薄さは、"比較的"という言葉を前置するに相応しいものであり、僕達が古今、出会ったことのない程や、後生聞くであろうことのない程のものではないからである。しかし、やはりありとあらゆる評価を差し挟まない、言葉そのままの形で、この店の肉が薄いということは、これから記す小慮のために述べておく必要がある。炭火焼肉ピカソは、設立から15年以上を経ている。その設備は些か旧式であると言わざるをえない。この店では来客は七輪で肉を焼かなければならない。よって火力の調節は不可能である。そして七輪の中に据えられているのは、歴とした炭火である。軟弱なガスコンロやバーナーより、遥かな火力を持つ物である。その炭と肉を隔てるのは、鉄板組みの網やホットプレートではなく、無慈悲な針金組みの網である。よってこの店の肉の、厚さというよりは薄さといった方が適した性質に対し、その火力は過剰であることは認めなければならない。このことから、焼肉が本来持つ、食べるまでに通過すべき遊戯性が、更に活気を呈したものになる。僕達は肉を焼くことに、最低限以上の注意を払わなければならない。平生であれば可能な、食べながら焼くということはどだい容易いものではなく、諦めざるをえない。かくして、焼くこと、食べることを同時進行せず、これらを交互に繰り返すのを、この店は強いるのであり、僕達は甘んじてそれを受け入れた。

焼肉という食事が他の凡百の同族から卓越している点は、それがそれ自体として、独自のイベントとなり得ることである。ラーメンだの、定食だの、ハンバーガーだのといったメニューがそれ自体独自に持つ魅力は周知の事実であるし、ここで書くには適さないものだが、それらは逃れ得ぬ宿命として、1日の流れの内に組み込まれる、ある種のパッシブな行いである"食事"の範疇を脱し得ない。対して焼肉は、その焼く、という行為が持つ愉快さからか、それとも肉を焼く、ということに対し僕達の遠い祖先が残した記憶を、DNAが思い出していることからか、あるいはその両方か、それとも他の思いもよらぬ理由からか、それが一孤の不羈の行いとして、1日のハイライトたり得る存在感を持っているのである。今僕は非常に難しい話をすることに挑戦している。ここで僕が述べていることの根拠はエモーショナルなもの、観念的なものであり、さほど理性的な、或いは明確な根拠を持たない。さりとて、個人的な価値観の差異によるものとも思えない。しかし、焼肉が他の食事に対してもつ独自さは、我々が普段「ラーメン行った」と言う時や「ハンバーガー行った」と言う時は、言外の前提としてラーメン(屋)、ハンバーガー(屋)という様に、それが提供される店を指しているのに対し、「焼肉行った」と言う時には明らかに、焼肉屋で肉を焼く、という行為に対するニュアンスを含んでいることからも伺える。この僕の主張への反証として、焼肉の形態そのものが一般的に、自分で肉を焼くという行為を伴っているのだから、上記のようなハンバーガー、ラーメンといった食べるという行為のみを内包するメニューを比較対象とした弁証は、誘導だということが言われるかもしれない。ならば、鍋ならどうだろう。「鍋行った」という表現が一般的であるかどうかは別として、鍋も明らかに、単純に食物を摂取する以外に、何らかの作業を僕達に課す性質を持った産物である。しかし、「鍋行った」と言われるとき、そこには「焼肉行った」が持つ、あの作業を連想させる生き生きとした高揚や、その日の突出したイベントたる孤高さはない。同じことが、「しゃぶしゃぶ行った」や「すき焼き行った」にも言えるのではないだろうか。

追記-ところが、これは「もんじゃ行った」「お好み焼き行った」だと当てはまるのではないか。これは今後の研究対象とする。

かくして焼肉が持つ特筆すべき娯楽性を更に活気付けながら、炭火焼肉ピカソは僕の飽くなき欲求、肉が食べたいという祈願を、一旦は満たしてくれたのである。同伴者某君と2人で計24皿、実質(ピカソ曰く)12人前、ライス大盛り、冷麺を消費した僕は、煙臭さを身に纏って、家路についたのだった。

はるかなるわがラスカル

 

半年以上かけて見続けてきたあらいぐまラスカルが、今日最終回を終えた。僕にとっては再体験となるこの作品だが、最初に見たとき(3,4歳くらい)のことなど当然覚えていないので、大人になってから見るとまた感慨深いなどということはなく、全く持って新鮮な気持ちで、ほぼ“新作”として僕はこの“ラスカル”に臨んでいた。

今度の最終回は、ある意味で最終回が持つ当たり前の感動とは全く別の、一種の衝撃を僕に与えてくれた。それはこの最終回が、僕の予想に反していたということで、肩透かしを喰らったということでもあったし、同時に僕にまた新しい気付きを与えてくれたということでもある。こんな事情がなくても、どちらにしろ日記を書こうと思っていたほど、僕にとってこの作品は大きな存在感を持っているのだが、とにかくこの衝撃について訴えたいと思う。

最初に感想を一言で述べると、非常に“あっさり”していたという言葉に終始する。

あまりに認知度が高すぎることや、再三の前振りのせいで、スターリングとラスカルの間に別れがやってくるということは視聴者側からすれば分かりきっていることなのだが、そのひっぱりにひっぱって、ゆうに一年近くお膳立てしてきたスターリングと彼を取り巻く様々な人間関係(ラスカル含む)の終わり方は、とても、さあ泣こう、泣いてやるぞとドラマに対して前のめりになっている人間を受け止めてくれるものではなかった。それどころか、最終回特有の厳かさや、物憂さもなく、まるで、今まで丁寧に散りばめ、積み上げてきたこの作品の様々な“要素”を、もう用済みだというように手際よく片付けていくような印象すら覚えた。

冒頭で喧しいアリスがいつもの様に白タイツでスターリング家にやってくる。もう何度見たかわからないお得意の導入パターン。そのままするすると場面は別離のシーンに移り、スターリングは予定通りラスカルを湖のほとりに、ラスカルの仲間たちの住む場所に置き去りにするという仕事をやってのける。Aパートがここで終わり、以降僕がラスカルを見ることは二度とない。この最終回のクライマックスは、今まで僕がさんざん予期し、惧れ、その悲しみに打ちひしがれることに耐える準備をしてきたラスカルとの別れではないのだ。スターリングも、一応涙を流しながら、“僕もラスカルも、大人になったんだ。”とさしたる躊躇いもなく、親友の元を去る。

よく考えれば、僕が期待していたような湿っぽい“別れ”を、彼らはもう見せてくれていたのだ。当たり前のことだが、26話のはなしである。26話で二人は、遠ざかりながら何度も振り返り、お互いに何度も呼び合っていたのである。もちろん悲げなBGMをバックに。あの時“ラスカル”は、典型的な別れを僕に見せ、情けなくも20代の男が画面の前で涙を流すという行為を、とっくに許してくれていた。僕は、身勝手にも、無責任にも、またあれと同じことが起きるのだろうと、勝手に期待していたのである。“ラスカル”が50話以上もかけて描いてきたスターリングとあらいぐまの成長は、冷静さと期待を半分づつ持ってそれに追従していた僕を、遥かに置き去りにしていたのだった。

続いてオスカー、アリス、ハウザー、そして父親との別れがBパートで描かれる。ここで申し訳程度にスラミーが登場したりする。今度は多少Aパートよりはもの悲しさがおそう。「電車が来なければいいのに。」と無邪気なアリスは言う。これまで、この原作には登場しないキャラクターの無垢さに、何度僕は救われてきたのだろうか。スターリングを乗せて走る汽車を追いかけて、今度こそ三人はいかにもという感じの惜別の言葉を交換し合う。しかし今度は、誰も涙を流さない。やはり、ここでも僕が予期していたような、湿っぽい最終回の姿はないのだ。走る二人と、見下ろすスターリングを見て、僕は爽やかさを覚える。

成長とは、違ったものになることなのだ。同じことを繰り返さないことなのだ。

「皆さんお元気で、また会いましょう。」というスターリングのモノローグに対して、眠っている同席の老婆の首が傾ぐのが、強くうなずいているようにも見える。そして床に落ちた本を拾い上げて老婆の手元に置くスターリングの、物語の展開には全く不必要な、“人間らしい”動作。これまで何度も“ラスカル”が見せてくれたこの様な素晴らしい演出は、この最終回がもたらす衝撃に対するアディションでしかない。

これらの“あっさり”感は、意図されたものではなく、クールという枠に縛られたアニメの、マネージメント上の問題によって生まれた駆け足感なのかもしれない。しかしそれでもいい、そう錯覚しているだけでもいいと思える。それだけのことを、“ラスカルは”作中の時間の経過と、現実の時間の経過がほぼ同調する程度の丁寧さでもって、やってきたのである。

勝手な僕を、ずっと見届けてきたはずの僕を見放して、彼ら登場人物の成長は、その後姿で、僕に以上のような発見をくれたのだった。

 

最後に、どうしても月並みなことを書きたい。僕は、やっぱり“ラスカル”はいいアニメなんだなあ。というなんとも情けないことが言いたいのである。僕にとってのいいアニメというのは、現実逃避の手段ではない。すぐれた芸術であることでもない。息をのむようなドラマや、予測できないスリル、サスペンスを提供してくれるものでもない。(勿論これらに当てはまることも、世間一般でいう良いアニメなのだが。)僕が言いたい、いいアニメとは、僕に、人生を肯定してくれるアニメなのだ。いくらこの“ラスカル”の最終回があっさりしていたとはいえ、僕はスターリングに、アリスに、オスカーに、ラスカルに、“あの”名残惜しさを覚え、「こいつらの人生は、これからどうなっていくんだろう。」という関心を持った。“神様ありがとう。僕に友達をくれて。”という歌詞に、僕は戦慄を覚えた。近藤喜文をはじめとするスタッフの、必要以上に、人間以上に、病的なまでの人間らしい演出に、リアルさを感じた。この世は、この人生は生きるに値するんだということを、この作品は教えてくれたのである。

僕もまた、彼らを見習わなければならない。この素晴らしい作品との別れを惜しむのは程々にして、前を向かなければならない。こうして僕は、少しは生きることを肯定できるのである。

 

 


あらいぐまラスカル 世界名作劇場 おいでラスカル - YouTube

 

2014年6月13日

午後13時30分。

今日も一、ニ限をサボってしまった。W杯観戦の為の徹夜のせいだ。しかも試合が始まった直後にレム睡眠に陥り、朧げな意識の中で見た得点シーンしか記憶に残っていない。無作為に出来上がったハイライトは、前後の脈絡がないので全く味気がない。つまらないものだ。
食事をし、撮りためたニクール前のアニメを一話消化して家を出る。今日は給料日である。
 

午前1時52分。

授業が終わった後、図書館で申し訳程度に卒論課題を読んだ。下校後早速消費行為をしようと青山ブックストアに行ったがポイントカードがないことに気付く。大友克弘画集とPCグラスは保留になった。家に帰ってから探したが結局見つからなかったので捨ててしまったようだ。
せめて外食でもしようかと千住大橋二郎に出向くがお得意の“都合によりお休み”。結局家に帰ってアニメを見ながらカップラーメンをすするという生産性の高い活動をおくることになった。それにしても去年の10月期のアニメは本当に粒ぞろいだった。化物語京騒戯画、キルラキル、境界の彼方、と枚挙に暇がない。なかでも白眉は京騒戯画である。玄人向けっぽい難解さに胡坐をかくのではなく、しっかり週一アニメとしての爽快さ、勢いを保っている。情報をバラバラに散らして小出しにして提示するという手法はエヴァ以来やりつくされているが、箱庭的なシンプルな世界観と、“活きている”キャラクターのお陰か、(こちらはきちんと収束に向かっているし。)エヴァ“Q”で感じたあの底意地の悪さや展開に対する必然性のなさを、全く感じない。
ジョーン・ロビンソンは、解釈のほうを半分こしらえた。明日あたり図書室に出向いてみるのもいいかもしれない。
 
 

2014年6月12日

午前10時3分、
今日も雨だ。腕時計が6分も進んでいる。

午後17時7分、
面倒くさい用事は本当に面倒くさい用事になりそうだ。
経済学史の授業が二週連続でお座なりになってしまった。J.S.ミルの部分を全く理解できていないので、小テストの選択問題はリカードを選ぶことになるだろう。

授業のある日にバイトを入れるのは請われてももうやめようと思う。金を稼ぐのは現在の図書館通いの生活を円滑にするためでしかないので、バイトのせいで本を読む時間が削られるのは本末転倒だ。小目的の前に大目的を見失ってしまっていた。

有楽町のツタヤで、アニメスタイルを購入した。"蒼き鋼のアルペジオ"は、僕のアニメの見方を堕落させている作品の筆頭格だ。このアニメについては明日。