新文芸坐-萩原健一特集

2019年6月24日

午前2時42分

 

出張で中国に行っていた。

 

恋文

妻と子供を持つ中年男性の特異な恋愛を描いた物語。

余命僅かな元恋人から数十年ぶりの手紙を受けとった男が家族や仕事や自分の将来さえ顧みずに心のなかに芽生えた情熱に従って生きるお話

といえば聞こえはいいが、ふたを開けてみれば主要な登場人物全員が狂っており、それに翻弄される子供だけが正気という異常な世界の話だった。

もちろんこれは常識的な価値観の恋愛や家族観を描くための映画ではないのだろうが、その異常な世界を通して垣間見えるのが決して美しいとはいえない侘しい中年同士の恋愛というのが憐憫を誘う。

作中で萩原健一演じる夫はありとあらゆるものから逃げ続ける。妻、子供、仕事、恋人の死、そして自分の勝手な行動に対する周囲の人びとへの説明責任。

それらからの逃避先が愛人やはたまた妻であったり友人宅であったり酒や暴力、ときには刑務所であったりするわけだが、愛人の最期を見届けることから逃げた結果家族のもとに帰ることは選ばなかった。

妻もそんな夫を責めさえすれど見捨てたり拒絶したりすることはない。夫の無軌道な行動に対する説明を息子にすることもない。

マンションの廊下を照らす電燈に浮かぶ男の背中で物語は終わりを告げる。しかし、家族は、少なくとも妻は、そしておそらく息子も切実に夫の帰りを待っていたのだ。

 この行為は夫にとってそれまで繰り返してきた逃避のうちの一つなのだろうか。あるいはとうとう最後の退路を断ちきって終の場を探す旅に出たのだろうか。

いずれにせよ、これが中年男性が胸に抱く自己憐憫でありナルシシズムなのだろうか。

論理的な行動規範もなく、ただ自分の欲求にしたがいささやかなロマンスに身を投じ、かつての恋人は二十数年経っても自分を思い続けてくれ、妻は身勝手な自分を悪者にせず半ば背中を押してくれさえし、子供は相変わらず自分を求め続けてくれる。

仕事に費やしてきた年月が自分の人生の半分以上を占め始めてきた男が一生の行き止まりを垣間見る前に思い描く夢の形の一つがこれなのだろうか。

少なくとも今の僕にはまだ理解したくない、理解できなくて良い世界だった。

 

離婚しない女

萩原健一主演の同じく鬱屈とした感傷的な中年の恋を描いた映画。

フィクションの世界で描かれる中年の恋愛がどれも陰鬱でジメジメとしているのは彼らが生きる時間に流れる渇きを覆い隠すためなのだろうか。

この映画の登場人物の表情は本当に暗い。うなだれ、歯を食いしばり、眉間に皺を寄せ、言葉にならない苦しみをスクリーンの向こうに訴え続ける。たまに見る笑顔といえば張り付いたような薄ら笑いやわざとらしい作り笑いばかり。

北海道の自然の厳しさと彼らの人生における先行きのなさが妙にシンクロする。

恋愛に身をやつしているはずなのに、自分の中の燃えるような衝動に突き動かされ快楽と愛情を求めているはずなのにそれでさえ彼らには苦しみが伴うのだろうか。

ひょっとすると人生とは彼らにとってそういうものなのかもしれない。

悲鳴を上げ、地を這うような苦しみを伴いながらも何かを探し求めることが生きることだと彼らは訴えたいのかもしれない。