泥の河/砂の女

午前1時3分

 

今日は天気が良く自転車で池袋に行けた。

 

新文芸坐 - キネマ旬報創刊100年記念 キネ旬ベストワンからたどる昭和・戦後映画史

http://www.shin-bungeiza.com/pdf/20190707.pdf

 

泥の河

凄い。単純に圧倒された。画面に映るすべてがかっこいい。いつもそうなのだが素晴らしすぎる作品に出合うと"良い"という言葉しか頭に浮かばない。ただただ絶句してしまう。

この映画にはいくつかテーマが設けられていて、子供同士の出会いと別れだとか、戦後の日本が抱えた問題だとか、子供が「大人になること」を意識することだとか、どれも丁寧に表現されていて十分素晴らしいのだが、それらのテーマが些事に見えるほどの圧倒的な情景が画面に描かれていた。

文字通り町と工場の汚れを飲み込んできたであろう(多分)安治川の濁った流れ、白黒スクリーンでもはっきりと伝わる暗澹とけぶった空の色、軋むトタンと傾く床板 - それらに囲まれた風景の中にたたずむ煤けた頬の子供たち。

この光景に胸打たれない人間はいるのだろうか。いやいないだろう。僕が生まれた土地が東京の旧工業地帯だからとか、昔大阪の安治川近隣に住んでいたからとか、小さいころ明日のジョーが好きだったからとか関係ないはず。いやない。あらん限りの力で訴えたい。これはすべての日本人の心象風景だ。

(関係ないと言えば安治川の九条-西九条を隔てるポイントにはとても珍しい川底を横切るトンネルがある。エレベータ付きで自転車も通れる。味あり過ぎ。)

情景だけでなくディテールにしつこい程凝っているのもため息が出るほど素晴らしい。

きっちゃんが着ているタンクトップの丈の長さ(貧乏描写としてリアル過ぎる)とか、突然流れはじめる赤胴鈴之助の歌とか、棚に並ぶいちいち貧乏くさい瓶・缶の類。僕を喜ばせるものしかこの作品のフィルムには焼かれていないのだ。

きっちゃん姉弟のためにのぶちゃんがサイダーをくすねるシーンや、廊船とのぶちゃんの別れのシーンなど、感涙物の場面にしようと思えばしてしまえるのにあえてドライな展開で終わらせてしまうところも良い。

 

物語に目を向ければ、この映画は断絶の話だ。生と死。充足と窮乏。大人と子供。二つの世界の狭間に流れる断絶が徹底的に描かれている。片方の岸にいる者には、隔てられたもう片方の岸にいる者の世界を思い描くことはできない。

荷馬車引きのおっちゃんや河さらいの老人の死は確実に幼いのぶちゃんに「死」という未知の概念を知らしめたであろうが、それが若すぎるのぶちゃんに実感を伴うってもたらされたかどうかは眩しそうに眉をしかめる彼の表情からは読み取れない。生の真っただ中にあるものにとって、死は目の前に現れてもなお現実味を帯びないものなのだろうか。

客観的に見て裕福とは程遠い暮らしをしており、学校では友達にテレビを買ったことを自慢される立場にあるのぶちゃん家族ですら、定住の場所さえないきっちゃん家族との間に覆しようのない貧富の差が存在する。

それらが特に子供の目線から語られていく訳だが、こと子供と大人の隔絶については断固とした線引きがされているように思える。

この映画は子供が大人になる過程の物語ではない。「信雄が成人するまであと11年ある」と父親がひとりごちるように、わずか9歳の主人公には物語が終わった後も子供としての人生が、幼年の時間が流れていくのだろう。作品の中でのぶちゃんが体験した出来事は確実に彼の人格に影響を与えるだろうが、それは即座に彼自身に心理の変化を予期させるものや、ましてや実感させるものではなく、おそらく彼が大人になってからふと思い出したり、彼の人生に時に光で照らし時に影を投げかけたりするようなものなのだろう。

何かの契機や節目ではなく、人間の心の奥深く底の方を流れる風景。泥の河で映し出されるのはそんな世界だ。

子供と大人の隔たりでもっとも顕著なのが、きっちゃんの母親の部屋をのぶちゃんが訪れるシーンだ。それまで声でしか存在を描かれなかった母親が一人座る部屋は、まだのぶちゃんが知らないであろう外国の女優のポスターや化粧品で彩られている。

そしてその中で微笑をたたえる母親は、この映画で唯一といって良い美意識的な意味での「美しさ」を備えた存在だ。

河も橋も建物も人も、すべてが灰色に薄汚れた世界の中で、白い和服を着こなし髪型を端正に整えた美貌の母親(この映画ならやつれた中年のおばはんが出てくるんだろうと正直思っていたが、ここは観客にこびてくれてよかった。というか美女を否定する理由など映画を観るうえで存在しない)。そんな美しく触れがたいような存在が見知らぬ男の身体の下に組み敷かれ髪を振り乱し嬌声を上げるシーンで、物語は終わりの始まりを告げる。

窓の外から事態を覗くのぶちゃんの視線を捉えた美しい母親の目からは言葉にできる感情を読み取れない。悲しみも怒りも罪悪感もたたえない目は、ただ子供にありのままの現実を、どうしようもなく現実がそこに存在することを見せつける。

それは子供にとって謎に包まれた存在であった大人の正体を暴くものであったし、大人とは、現実とはこのようなものであるという一面を見せつけることによって、両者の断絶を大人の側から告げるものであったように思える。

 

とにかく物凄い衝撃、−戦後から70年代にかけての希望と不安と貧困と怒りと混沌をかき混ぜて、凝縮して、それを手のひらに爪が食い込むほど拳に握りしめて顔面にめり込まされるような衝撃‐に襲われるような映画だった。

 

砂の女

これも物凄い作品だったのだが泥の河がそれ以上に凄すぎて正直あまり語るところがない。オープニングからタイトルにかけてが異常なカッコよさ。

それにしても2時間半という尺の映画を前にして、一瞬一秒たりとも気が散りませんでした、終始映画の世界にのめりこんでいられましたという人はいるのだろうか。というかそれだけの長尺の映画を眠気を感じることなく最後まで観られる人っているのか

しかもこの映画殆ど場面同じですよ。