境界上のカレー

2015年2月4日午後5時13分。

ゼミの同輩たちの話し合いは長い。今日は歓送コンパとやらでゼミ官と副ゼミ官の二人に飴のブーケを贈ってやろうと秋山が言いだし皆それに乗り気になってキャンパスに集合した後渋谷まで出かけてドンキホーテで30個近くのチュッパチャップスと100円ショップで針金のモールを買ってきた。そのあとキャンパスまで戻ってチクチクと四人で手仕事をしたのだ。簡単なはずの工作はやたら難航したし、僕の不器用さはそれに50分の1も貢献できなかった。作業の間中、二人の女子はやれこんなに苦労して作ってやろうともゼミ官はたいして喜ばないだろうとか、しかし副ゼミ官の彼女はとても喜んでくれてそのあまりブーケを振り回してチュッパチャップスはすっぽぬけてどこかに飛んでいってしまうだろうとかいう機知にとんだ話をして、それは作業が終わってからも続いた。おかげで僕の予定は狂った。一次会の間時間をつぶすために見に行こうと思っていた新文芸坐の追悼フィリップ・シーモア・ホフマン&ジャン・ル・カレ原作2本立て『裏切りのサーカス』と『誰よりも狙われた男』はそろそろ席を立とうかという頃にはもう始まっていたし、池袋に出発する前に腹をこしらえて行こうと思っていた学食は閉まっていた。映画を見ることができなかったのはまあ良い。どうせ思いつきだったし渋谷界隈には上述の2作に匹敵するような面白そうな作品を上映している映画館は一つもなかった。しかし学食から締め出されたのは重大だった。時刻午後16時過ぎ。僕はすっかり昼飯難民になっていた。街は冷たかった。軒先にはこんな時間まで腹を肥やすのを先延ばしにしていたお前が悪いのだとでも僕に言うように、支度中の札がずらっと並んでいた。仕方がないので今まで一度も入ったことがないような古本屋に入って時間をつぶしたり、ガードレールに座り込んで煙草を吸いながら、こうなったら御茶ノ水まで出張って徳萬殿のチャーハンでも食って腹いっぱいになってざまあみろとでも思ってやろうかああ、でもこの時間じゃ徳萬殿ももう閉まってるかもなあ。と低回していたとき、ふと喫茶ウェストのカツカレーのことを思い出したのだ。

喫茶ウェストは宮益坂の頂上から一歩奥まったところの誰にもかえりみられないような暗い路地にある。ここのカツカレーは中途半端に有名らしく、エントランスの脇にはそのカツカレーを取り上げた雑誌が絢爛たる勲章のように張り付けてある。カツカレー1,000円サラダ付。名物カレー850円サラダ付。店内は古びて汚い。客席の一部は物置のようになっていて開いた段ボール箱が積まれているし、あの老婆は仕事がないときはそこに椅子を置いて茶菓子を頬張っているのだ。ウェストの老婆は優しくて、俺が入っていきなりカツカレーの有無を問うと、気さくに笑ってあるわよと答えて奥の窓辺の席を指し示してくれる。この老婆はこの店ににつかわしく薄汚くなっていて、灰色の針金のような髪はぼさぼさと放射状に振り乱していおり、セーターも煤こけていて怪しい魅力というより不気味な存在感を放っているのだが、その顔は不思議と美しい。すらっとした痩躯は色あせて伸び放題の髪に負けず存在を主張して、易々と見せる笑顔とあわせてある種の気品すら彼女は感じさせるのだ。だが耳は遠い。

僕が座った椅子は薄い板張りの壁と窓に挟まれて幾分か窮屈で、ほんのりとたばこの臭いが鼻を突いた。目の前の席にはいずこからかやってきた二人の男が座っていて、手前等のアプリケーションでもってどうやってユーザーに課金すべきかという話をしている。やたら声がでかいので僕は読んでいる本に集中できない。そうこうしているうちにカツカレー様が僕の目の前にやってくる。見本よりやたら軽薄な色のルーに僕は些細な不安を覚えるが、そんなことは関係ない。目の前にあったら食うという哲学は僕が生まれた時から変わっていないのだ。ライスとルーの境目にそえてあるカツ

は、分厚くて一切れだけで口の中がいっぱいになりそうである。これだ。求めていたのはこの充足感だ。繊細さなどいらない。機微など唾棄する。ただ食物で体内を征服するために、食事という行為は存在するのだと、僕は実感する。名物の名に恥じるところのない、立派にカツのカツたる役目を果たしている豚のカツ野郎である。ところがやはり邪魔者というのはどこにでもやってくる。この堂々たるカツの手前で、みすぼらしく沈殿しているルーがまさにそれだ。この惨めに薄められ、中間色に堕した見た目、さらさらとして一切まとわりつくことのない弱々しさ、融解してその主張を追憶の果てに置き去りにした具材の数々。僕はそいつらをすすりながら1時間30分の昔に締め出された学食を思い出す。そう、それは間違いなくレトルトである。やる気を感じない。それは辛うじてカレーであるだけで、カレーとして存在する意味を込められていない。カレーとそうではない粘液との境界線上、そのギリギリカレーと認識できるところに穿たれたピンである。

しか勿論、僕はそれを食う。大体、僕にとってはこの喫茶ウェストにくること、ここでこのカツカレーを食うことに意味があったのであって、美味いか不味いかなどもはやどうでもよかった。高校生の頃、僕は友人二人と連れ立ってこの店先で高校生らしいやり方でどうすりゃええんだ入るべきか入らざるべきかという議論を繰り返し、結局餃子の王将にしようという発想の飛躍を得ことがあった。この店に入ろうという提案をしたのは僕だったが、それが却下されたところでまあいい、またひとりでくりゃいいや、とその時は軽く考えていたのだった。先延ばしにしたことをふと思い立ちやり遂げることは、こと僕に限っては格別の感慨がある。大体僕はなんでも先延ばしにしてばかりなのだ。先へ先へと送っているうちに、物事は僕の手の届かないところまで遠ざかって行ってしまう。今度買い占めようと思っていた古本屋は潰れ、後で聞くことにしたアルバムは廃盤になり、いつか読もうと決めた小説は題名を忘れる。僕は堂々たるカツと裏切りのような味のルーを口に含みながら、遠い過去の僕にあのふがいないときの僕に、確かにやってやったぞ。お前の無念は果たしてやったぞ。と呼びかけていた。

ウェストの老婆は耳が遠いので、僕は自分で灰皿を見つけ出して一服していた。男たちの声は多少おとなしくなったものの、まだ読書には少々煩い。これならいったんキャンパスに戻って図書館にでも籠ったほうがましだと思って、僕は喫茶ウェストを後にすることにした。これから僕をゼミから破門した教授が一次会を去り、2次会が始まるまで4時間近く時間を潰さねばならないのだ。