最近の活動-怪獣映画ってそうじゃないよね

運動を始めた。

髪を自分で切っている。

 

2017年6月9日午前1時57分

水のないプール(1982)

内田裕也主演。この時代の日本映画が持つどことなく湿り気を帯びたような不穏な空気が好き。

水の張っていないプールでシャボン玉を吹く女性。改札口に絶え間なく響くパンチの音。真夜中の噴水。無機質で懐かしいイメージの洪水。

クロロホルムで気絶した女性の身体を弄ぶ一連のシーンがやたらと執拗で、それらのイメージに水を差していたのが残念。確かに顔もスタイルもいい女優を集めていたが、マグロとまぐわう内田裕也程どうでもいいものもこの世にないだろう。

映画がその映画にしか実現できない質感とカットで成り立っている限り、僕は映画には幻想を見せてほしい。飛び切りの幻想を。

 

海獣の子供

高校生の時に原作を途中まで読んでいた。確か3巻くらいまで。

僕の中で五十嵐大介の最高傑作は「はなしっぱなし」で止まっている。

読者の思考を拒んでいると言っていいほどに感覚に訴えかける漫画が映画になって、そのうちのどこが切り取られどこが捨てられたのかも今の僕には分からなくなっていたが、この映画は止まっていた時間を記憶の中からすくいだして進めてくれたような気がした。

世界中の神話や伝説の共通性、海の生物の生態を教えてくれるのも原作の面白さのひとつだった。映画ではそういったサイドストーリーはカットされ、物語がルカを取り巻く出来事として再構築されていたように思う。

結果的に作品内で起こる不思議な事件に対する神話的な面でのバックボーンが取り去られ、かえってサイエンスフィクション的な説明への期待が高まってしまっているような気がしたが、そんなものは結局ないのだから、ジムや怪しい外国人政治家達との会合シーンはなくてもよかったんじゃないかと思う。

あれでかえってロジカルに物語が種明かしされるような匂いが不必要に感じられてしまう気がした。

誰もが納得いくような答え合わせがあるなんて、期待させない方が良いだろう。

怪獣の子供はそんなことの為にある作品ではないのだから。

この映画は解釈(理解ではなく)を拒み、観るものを置き去りにする点で原作に忠実に作られているが、それはアニメーション映画という形態になったことでより際立つものになったと言えよう。

生命の誕生と死、そして再生の儀式が、押し寄せるようなビジュアルと眩さの中で描かれている。

一つの命を生むために何千万の精子が犠牲になるように、生誕祭を前にして波打ち際に運ばれる無数の深海魚。

一人の少年に訪れた死が、惑星という大きな体系の新たな器官の誕生となる。

誕生が死に、死が再生に繋がれていくように、命と命の間でも集合と離散が繰り返されている。

怪獣の子供はそんな途方もないイメージを伝えてくれる。

しかし、それ以上に胸を打つのは、真摯に描かれた日常の風景だった。

マンホールを踏む足音、擦りむいた膝を撫でた時の手触り、窓を這う雨のしずく。これ程までに人間を取り巻く世界の質感を雄弁に伝えてくれる作品がかつてあったか。

それだけを伝えるために、映画は作られていい。

 

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

怪獣好きな少年がハリウッドの力を得て、怪獣に興味のない観客の為に心ばかりの家族ドラマを添えて、自分が望む最高のゴジラ映画を撮った。そんな印象。

確かにハリウッドが提供する映像は圧巻といえる。ゴジラが、ラドンが、キングギドラが、そしてモスラが画面に映っている限り退屈することは一瞬もなかった。いや、明らかに最高の興奮を与えてくれた。間違いなく面白い。けど、ただそれだけだった。

キングオブモンスターズは怪獣映画になろうとしているけど、何故だかなりきれていない。

人間ドラマが共感性皆無で鑑賞の邪魔なのには目をつむる。ゴジラに最初からそんなもの求めていないし。

人間と怪獣が直接接触しすぎなのも許す。これじゃジュラシックパークと同じじゃないかとも言わない。

だが、キングオブモンスターズには怪獣映画にとってとても大切な何かが足りない。

怪獣映画は怪獣がただ暴れていればいいのか。

怪獣映画ってそうじゃない。

何のために怪獣が町を破壊するのか。なぜ観客はそれを心待ちにするのか。

それは日常の崩壊を見たいからだ。

自分たちを取り巻く見知った日常が、怪獣という非日常に蹂躙されるその過程。

踏み割られるアスファルトや、焼け爛れる鉄塔や、咆哮に振動する窓ガラス、崩れ去る見慣れた風景。

そして、崩壊の先にある"非日常に支配された日常"という世界。

国会議事堂に張られたモスラの繭や、ギャオスが羽を休める東京タワーの美しさ。

僕は自分が住んでいる世界の成れの果てと、そこに至るまでの過程の美しさを見るために怪獣映画を観ていたのだ。

そして、怪獣映画にしか実現できない情景というのは、そこにあるものなのだ。

キングオブモンスターズにはそれがなかった。ドハティ監督は努力したといえる。火山の上に鎮座するキングギドラを遠景に捉えた教会のカットはまさにそんな光景を目指していたように思えた。

そこに僕の心が動かなかったのは、結局は映像がCGで、特撮じゃなかったからなのだろうか。そういう意味では僕も今や古い怪獣ファンなのかもしれない。でもやっぱり「怪獣映画ってそうじゃない」と思う。殆ど瓦礫の山と化した、元あった日常の面影すらないボストンの風景だけでは、物足りないのだ。

主人公家族の家があるボストンでの日常をもっと描写しておけばよかったとか、ボストンのランドマークの上にギドラが止まっていればよかったとか、そんな陳腐なことは言わない。僕にもそんなことはわからない。

ただ、日常の香りを残した最高の非日常を観るために、僕はまた怪獣映画を観るだろう。