はるかなるわがラスカル

 

半年以上かけて見続けてきたあらいぐまラスカルが、今日最終回を終えた。僕にとっては再体験となるこの作品だが、最初に見たとき(3,4歳くらい)のことなど当然覚えていないので、大人になってから見るとまた感慨深いなどということはなく、全く持って新鮮な気持ちで、ほぼ“新作”として僕はこの“ラスカル”に臨んでいた。

今度の最終回は、ある意味で最終回が持つ当たり前の感動とは全く別の、一種の衝撃を僕に与えてくれた。それはこの最終回が、僕の予想に反していたということで、肩透かしを喰らったということでもあったし、同時に僕にまた新しい気付きを与えてくれたということでもある。こんな事情がなくても、どちらにしろ日記を書こうと思っていたほど、僕にとってこの作品は大きな存在感を持っているのだが、とにかくこの衝撃について訴えたいと思う。

最初に感想を一言で述べると、非常に“あっさり”していたという言葉に終始する。

あまりに認知度が高すぎることや、再三の前振りのせいで、スターリングとラスカルの間に別れがやってくるということは視聴者側からすれば分かりきっていることなのだが、そのひっぱりにひっぱって、ゆうに一年近くお膳立てしてきたスターリングと彼を取り巻く様々な人間関係(ラスカル含む)の終わり方は、とても、さあ泣こう、泣いてやるぞとドラマに対して前のめりになっている人間を受け止めてくれるものではなかった。それどころか、最終回特有の厳かさや、物憂さもなく、まるで、今まで丁寧に散りばめ、積み上げてきたこの作品の様々な“要素”を、もう用済みだというように手際よく片付けていくような印象すら覚えた。

冒頭で喧しいアリスがいつもの様に白タイツでスターリング家にやってくる。もう何度見たかわからないお得意の導入パターン。そのままするすると場面は別離のシーンに移り、スターリングは予定通りラスカルを湖のほとりに、ラスカルの仲間たちの住む場所に置き去りにするという仕事をやってのける。Aパートがここで終わり、以降僕がラスカルを見ることは二度とない。この最終回のクライマックスは、今まで僕がさんざん予期し、惧れ、その悲しみに打ちひしがれることに耐える準備をしてきたラスカルとの別れではないのだ。スターリングも、一応涙を流しながら、“僕もラスカルも、大人になったんだ。”とさしたる躊躇いもなく、親友の元を去る。

よく考えれば、僕が期待していたような湿っぽい“別れ”を、彼らはもう見せてくれていたのだ。当たり前のことだが、26話のはなしである。26話で二人は、遠ざかりながら何度も振り返り、お互いに何度も呼び合っていたのである。もちろん悲げなBGMをバックに。あの時“ラスカル”は、典型的な別れを僕に見せ、情けなくも20代の男が画面の前で涙を流すという行為を、とっくに許してくれていた。僕は、身勝手にも、無責任にも、またあれと同じことが起きるのだろうと、勝手に期待していたのである。“ラスカル”が50話以上もかけて描いてきたスターリングとあらいぐまの成長は、冷静さと期待を半分づつ持ってそれに追従していた僕を、遥かに置き去りにしていたのだった。

続いてオスカー、アリス、ハウザー、そして父親との別れがBパートで描かれる。ここで申し訳程度にスラミーが登場したりする。今度は多少Aパートよりはもの悲しさがおそう。「電車が来なければいいのに。」と無邪気なアリスは言う。これまで、この原作には登場しないキャラクターの無垢さに、何度僕は救われてきたのだろうか。スターリングを乗せて走る汽車を追いかけて、今度こそ三人はいかにもという感じの惜別の言葉を交換し合う。しかし今度は、誰も涙を流さない。やはり、ここでも僕が予期していたような、湿っぽい最終回の姿はないのだ。走る二人と、見下ろすスターリングを見て、僕は爽やかさを覚える。

成長とは、違ったものになることなのだ。同じことを繰り返さないことなのだ。

「皆さんお元気で、また会いましょう。」というスターリングのモノローグに対して、眠っている同席の老婆の首が傾ぐのが、強くうなずいているようにも見える。そして床に落ちた本を拾い上げて老婆の手元に置くスターリングの、物語の展開には全く不必要な、“人間らしい”動作。これまで何度も“ラスカル”が見せてくれたこの様な素晴らしい演出は、この最終回がもたらす衝撃に対するアディションでしかない。

これらの“あっさり”感は、意図されたものではなく、クールという枠に縛られたアニメの、マネージメント上の問題によって生まれた駆け足感なのかもしれない。しかしそれでもいい、そう錯覚しているだけでもいいと思える。それだけのことを、“ラスカルは”作中の時間の経過と、現実の時間の経過がほぼ同調する程度の丁寧さでもって、やってきたのである。

勝手な僕を、ずっと見届けてきたはずの僕を見放して、彼ら登場人物の成長は、その後姿で、僕に以上のような発見をくれたのだった。

 

最後に、どうしても月並みなことを書きたい。僕は、やっぱり“ラスカル”はいいアニメなんだなあ。というなんとも情けないことが言いたいのである。僕にとってのいいアニメというのは、現実逃避の手段ではない。すぐれた芸術であることでもない。息をのむようなドラマや、予測できないスリル、サスペンスを提供してくれるものでもない。(勿論これらに当てはまることも、世間一般でいう良いアニメなのだが。)僕が言いたい、いいアニメとは、僕に、人生を肯定してくれるアニメなのだ。いくらこの“ラスカル”の最終回があっさりしていたとはいえ、僕はスターリングに、アリスに、オスカーに、ラスカルに、“あの”名残惜しさを覚え、「こいつらの人生は、これからどうなっていくんだろう。」という関心を持った。“神様ありがとう。僕に友達をくれて。”という歌詞に、僕は戦慄を覚えた。近藤喜文をはじめとするスタッフの、必要以上に、人間以上に、病的なまでの人間らしい演出に、リアルさを感じた。この世は、この人生は生きるに値するんだということを、この作品は教えてくれたのである。

僕もまた、彼らを見習わなければならない。この素晴らしい作品との別れを惜しむのは程々にして、前を向かなければならない。こうして僕は、少しは生きることを肯定できるのである。

 

 


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