雨の日/宮崎夏次系/小津安二郎
午前3時47分
雨続きで自転車に乗れない。
ILLUSTRATION Exhibition SESSION Vol.01
『せいかつのふしぎ』
最終日前日に気づいて訪問。
宮崎夏次系の絵は本当に良い。複製原画が欲しい。すごく欲しい。しかし2万7千円…。
ゆっくり悩んでみることにする。
新文芸坐 - キネマ旬報創刊100年記念 キネ旬ベストワンからたどる昭和・戦後映画史
http://www.shin-bungeiza.com/pdf/20190707.pdf
晩春/麦秋
初めての小津安二郎。殆ど同じ構造の二作品。
スクリーンの中の世界に映される日本家屋の映え方は凄い。
障子と襖でブロック分けされた間取りが場面の転換を容易にし、部屋から部屋への何気ない足取りにすらメリハリをもたらす。
家屋を取り囲む廊下と窓が時に部屋を細部まで照らし、時に人間のシルエットを浮き彫りにする。
梁と桟が、障子の網目が画面の中に幾重もの幾何学模様を形作り、複雑な奥行をもたらす。
そんな静謐で秩序だった空間の中に仏壇、洗濯物、薬缶、玩具、その他雑多な小物が配置され、規律のなかに柔和さが加えられる。なんだかドガのバレエの絵から受ける快感に似ている。
そんな空間をカメラは繰り返し繰り返し同じ構図で映し続ける。
時には昼の、時には灯りの中の同じ光景を繰り返し目の当たりにすることで、観るものは日常を意識する。
この作品の中で小津が語るストーリーは、謂ってみれば取るに足らないものだ。
戦後という時勢を反映したわけでもなく、ちょっと偏屈で時代に逆行したような価値観を持つ娘に舞い降りる縁談。娘がその先に描く幸福の形と父が抱く感慨。
優れた文芸作品の御多分に漏れず誰にでも共感できるような、誰にとっても実感のわかないような題材を、執拗なまでに描かれ、もはや重厚と思えるほどに折り重ねられた"生活と日常"の描写が支えている。
BGMを極力抑え環境音を強調した演出が更に空間とその中に散りばめられたオブジェクトの存在を際立たせる。
この作品の日本家屋の中に存在するものは、家具であろうと日用品であろうと人間であろうと均しく静物であり、小道具だ。そしてそれは例え命をもっていようといなかろうと均しく息づいていた。
観ながらぼんやり"これって山田尚子の「リズと青い鳥」に似てるなー。やっぱり影響受けてんのかなー。"なんて考えていたが既にすごく分析的に指摘している人がいた。
そろそろブログに写真を上げたいな。
新文芸坐-萩原健一特集
2019年6月24日
午前2時42分
出張で中国に行っていた。
恋文
妻と子供を持つ中年男性の特異な恋愛を描いた物語。
余命僅かな元恋人から数十年ぶりの手紙を受けとった男が家族や仕事や自分の将来さえ顧みずに心のなかに芽生えた情熱に従って生きるお話
といえば聞こえはいいが、ふたを開けてみれば主要な登場人物全員が狂っており、それに翻弄される子供だけが正気という異常な世界の話だった。
もちろんこれは常識的な価値観の恋愛や家族観を描くための映画ではないのだろうが、その異常な世界を通して垣間見えるのが決して美しいとはいえない侘しい中年同士の恋愛というのが憐憫を誘う。
作中で萩原健一演じる夫はありとあらゆるものから逃げ続ける。妻、子供、仕事、恋人の死、そして自分の勝手な行動に対する周囲の人びとへの説明責任。
それらからの逃避先が愛人やはたまた妻であったり友人宅であったり酒や暴力、ときには刑務所であったりするわけだが、愛人の最期を見届けることから逃げた結果家族のもとに帰ることは選ばなかった。
妻もそんな夫を責めさえすれど見捨てたり拒絶したりすることはない。夫の無軌道な行動に対する説明を息子にすることもない。
マンションの廊下を照らす電燈に浮かぶ男の背中で物語は終わりを告げる。しかし、家族は、少なくとも妻は、そしておそらく息子も切実に夫の帰りを待っていたのだ。
この行為は夫にとってそれまで繰り返してきた逃避のうちの一つなのだろうか。あるいはとうとう最後の退路を断ちきって終の場を探す旅に出たのだろうか。
いずれにせよ、これが中年男性が胸に抱く自己憐憫でありナルシシズムなのだろうか。
論理的な行動規範もなく、ただ自分の欲求にしたがいささやかなロマンスに身を投じ、かつての恋人は二十数年経っても自分を思い続けてくれ、妻は身勝手な自分を悪者にせず半ば背中を押してくれさえし、子供は相変わらず自分を求め続けてくれる。
仕事に費やしてきた年月が自分の人生の半分以上を占め始めてきた男が一生の行き止まりを垣間見る前に思い描く夢の形の一つがこれなのだろうか。
少なくとも今の僕にはまだ理解したくない、理解できなくて良い世界だった。
離婚しない女
萩原健一主演の同じく鬱屈とした感傷的な中年の恋を描いた映画。
フィクションの世界で描かれる中年の恋愛がどれも陰鬱でジメジメとしているのは彼らが生きる時間に流れる渇きを覆い隠すためなのだろうか。
この映画の登場人物の表情は本当に暗い。うなだれ、歯を食いしばり、眉間に皺を寄せ、言葉にならない苦しみをスクリーンの向こうに訴え続ける。たまに見る笑顔といえば張り付いたような薄ら笑いやわざとらしい作り笑いばかり。
北海道の自然の厳しさと彼らの人生における先行きのなさが妙にシンクロする。
恋愛に身をやつしているはずなのに、自分の中の燃えるような衝動に突き動かされ快楽と愛情を求めているはずなのにそれでさえ彼らには苦しみが伴うのだろうか。
ひょっとすると人生とは彼らにとってそういうものなのかもしれない。
悲鳴を上げ、地を這うような苦しみを伴いながらも何かを探し求めることが生きることだと彼らは訴えたいのかもしれない。
最近の活動-怪獣映画ってそうじゃないよね
運動を始めた。
髪を自分で切っている。
2017年6月9日午前1時57分
水のないプール(1982)
内田裕也主演。この時代の日本映画が持つどことなく湿り気を帯びたような不穏な空気が好き。
水の張っていないプールでシャボン玉を吹く女性。改札口に絶え間なく響くパンチの音。真夜中の噴水。無機質で懐かしいイメージの洪水。
クロロホルムで気絶した女性の身体を弄ぶ一連のシーンがやたらと執拗で、それらのイメージに水を差していたのが残念。確かに顔もスタイルもいい女優を集めていたが、マグロとまぐわう内田裕也程どうでもいいものもこの世にないだろう。
映画がその映画にしか実現できない質感とカットで成り立っている限り、僕は映画には幻想を見せてほしい。飛び切りの幻想を。
高校生の時に原作を途中まで読んでいた。確か3巻くらいまで。
僕の中で五十嵐大介の最高傑作は「はなしっぱなし」で止まっている。
読者の思考を拒んでいると言っていいほどに感覚に訴えかける漫画が映画になって、そのうちのどこが切り取られどこが捨てられたのかも今の僕には分からなくなっていたが、この映画は止まっていた時間を記憶の中からすくいだして進めてくれたような気がした。
世界中の神話や伝説の共通性、海の生物の生態を教えてくれるのも原作の面白さのひとつだった。映画ではそういったサイドストーリーはカットされ、物語がルカを取り巻く出来事として再構築されていたように思う。
結果的に作品内で起こる不思議な事件に対する神話的な面でのバックボーンが取り去られ、かえってサイエンスフィクション的な説明への期待が高まってしまっているような気がしたが、そんなものは結局ないのだから、ジムや怪しい外国人政治家達との会合シーンはなくてもよかったんじゃないかと思う。
あれでかえってロジカルに物語が種明かしされるような匂いが不必要に感じられてしまう気がした。
誰もが納得いくような答え合わせがあるなんて、期待させない方が良いだろう。
怪獣の子供はそんなことの為にある作品ではないのだから。
この映画は解釈(理解ではなく)を拒み、観るものを置き去りにする点で原作に忠実に作られているが、それはアニメーション映画という形態になったことでより際立つものになったと言えよう。
生命の誕生と死、そして再生の儀式が、押し寄せるようなビジュアルと眩さの中で描かれている。
一つの命を生むために何千万の精子が犠牲になるように、生誕祭を前にして波打ち際に運ばれる無数の深海魚。
一人の少年に訪れた死が、惑星という大きな体系の新たな器官の誕生となる。
誕生が死に、死が再生に繋がれていくように、命と命の間でも集合と離散が繰り返されている。
怪獣の子供はそんな途方もないイメージを伝えてくれる。
しかし、それ以上に胸を打つのは、真摯に描かれた日常の風景だった。
マンホールを踏む足音、擦りむいた膝を撫でた時の手触り、窓を這う雨のしずく。これ程までに人間を取り巻く世界の質感を雄弁に伝えてくれる作品がかつてあったか。
それだけを伝えるために、映画は作られていい。
ゴジラ キング・オブ・モンスターズ
怪獣好きな少年がハリウッドの力を得て、怪獣に興味のない観客の為に心ばかりの家族ドラマを添えて、自分が望む最高のゴジラ映画を撮った。そんな印象。
確かにハリウッドが提供する映像は圧巻といえる。ゴジラが、ラドンが、キングギドラが、そしてモスラが画面に映っている限り退屈することは一瞬もなかった。いや、明らかに最高の興奮を与えてくれた。間違いなく面白い。けど、ただそれだけだった。
キングオブモンスターズは怪獣映画になろうとしているけど、何故だかなりきれていない。
人間ドラマが共感性皆無で鑑賞の邪魔なのには目をつむる。ゴジラに最初からそんなもの求めていないし。
人間と怪獣が直接接触しすぎなのも許す。これじゃジュラシックパークと同じじゃないかとも言わない。
だが、キングオブモンスターズには怪獣映画にとってとても大切な何かが足りない。
怪獣映画は怪獣がただ暴れていればいいのか。
怪獣映画ってそうじゃない。
何のために怪獣が町を破壊するのか。なぜ観客はそれを心待ちにするのか。
それは日常の崩壊を見たいからだ。
自分たちを取り巻く見知った日常が、怪獣という非日常に蹂躙されるその過程。
踏み割られるアスファルトや、焼け爛れる鉄塔や、咆哮に振動する窓ガラス、崩れ去る見慣れた風景。
そして、崩壊の先にある"非日常に支配された日常"という世界。
国会議事堂に張られたモスラの繭や、ギャオスが羽を休める東京タワーの美しさ。
僕は自分が住んでいる世界の成れの果てと、そこに至るまでの過程の美しさを見るために怪獣映画を観ていたのだ。
そして、怪獣映画にしか実現できない情景というのは、そこにあるものなのだ。
キングオブモンスターズにはそれがなかった。ドハティ監督は努力したといえる。火山の上に鎮座するキングギドラを遠景に捉えた教会のカットはまさにそんな光景を目指していたように思えた。
そこに僕の心が動かなかったのは、結局は映像がCGで、特撮じゃなかったからなのだろうか。そういう意味では僕も今や古い怪獣ファンなのかもしれない。でもやっぱり「怪獣映画ってそうじゃない」と思う。殆ど瓦礫の山と化した、元あった日常の面影すらないボストンの風景だけでは、物足りないのだ。
主人公家族の家があるボストンでの日常をもっと描写しておけばよかったとか、ボストンのランドマークの上にギドラが止まっていればよかったとか、そんな陳腐なことは言わない。僕にもそんなことはわからない。
ただ、日常の香りを残した最高の非日常を観るために、僕はまた怪獣映画を観るだろう。
境界上のカレー
2015年2月4日午後5時13分。
ゼミの同輩たちの話し合いは長い。今日は歓送コンパとやらでゼミ官と副ゼミ官の二人に飴のブーケを贈ってやろうと秋山が言いだし皆それに乗り気になってキャンパスに集合した後渋谷まで出かけてドンキホーテで30個近くのチュッパチャップスと100円ショップで針金のモールを買ってきた。そのあとキャンパスまで戻ってチクチクと四人で手仕事をしたのだ。簡単なはずの工作はやたら難航したし、僕の不器用さはそれに50分の1も貢献できなかった。作業の間中、二人の女子はやれこんなに苦労して作ってやろうともゼミ官はたいして喜ばないだろうとか、しかし副ゼミ官の彼女はとても喜んでくれてそのあまりブーケを振り回してチュッパチャップスはすっぽぬけてどこかに飛んでいってしまうだろうとかいう機知にとんだ話をして、それは作業が終わってからも続いた。おかげで僕の予定は狂った。一次会の間時間をつぶすために見に行こうと思っていた新文芸坐の追悼フィリップ・シーモア・ホフマン&ジャン・ル・カレ原作2本立て『裏切りのサーカス』と『誰よりも狙われた男』はそろそろ席を立とうかという頃にはもう始まっていたし、池袋に出発する前に腹をこしらえて行こうと思っていた学食は閉まっていた。映画を見ることができなかったのはまあ良い。どうせ思いつきだったし渋谷界隈には上述の2作に匹敵するような面白そうな作品を上映している映画館は一つもなかった。しかし学食から締め出されたのは重大だった。時刻午後16時過ぎ。僕はすっかり昼飯難民になっていた。街は冷たかった。軒先にはこんな時間まで腹を肥やすのを先延ばしにしていたお前が悪いのだとでも僕に言うように、支度中の札がずらっと並んでいた。仕方がないので今まで一度も入ったことがないような古本屋に入って時間をつぶしたり、ガードレールに座り込んで煙草を吸いながら、こうなったら御茶ノ水まで出張って徳萬殿のチャーハンでも食って腹いっぱいになってざまあみろとでも思ってやろうかああ、でもこの時間じゃ徳萬殿ももう閉まってるかもなあ。と低回していたとき、ふと喫茶ウェストのカツカレーのことを思い出したのだ。
喫茶ウェストは宮益坂の頂上から一歩奥まったところの誰にもかえりみられないような暗い路地にある。ここのカツカレーは中途半端に有名らしく、エントランスの脇にはそのカツカレーを取り上げた雑誌が絢爛たる勲章のように張り付けてある。カツカレー1,000円サラダ付。名物カレー850円サラダ付。店内は古びて汚い。客席の一部は物置のようになっていて開いた段ボール箱が積まれているし、あの老婆は仕事がないときはそこに椅子を置いて茶菓子を頬張っているのだ。ウェストの老婆は優しくて、俺が入っていきなりカツカレーの有無を問うと、気さくに笑ってあるわよと答えて奥の窓辺の席を指し示してくれる。この老婆はこの店ににつかわしく薄汚くなっていて、灰色の針金のような髪はぼさぼさと放射状に振り乱していおり、セーターも煤こけていて怪しい魅力というより不気味な存在感を放っているのだが、その顔は不思議と美しい。すらっとした痩躯は色あせて伸び放題の髪に負けず存在を主張して、易々と見せる笑顔とあわせてある種の気品すら彼女は感じさせるのだ。だが耳は遠い。
僕が座った椅子は薄い板張りの壁と窓に挟まれて幾分か窮屈で、ほんのりとたばこの臭いが鼻を突いた。目の前の席にはいずこからかやってきた二人の男が座っていて、手前等のアプリケーションでもってどうやってユーザーに課金すべきかという話をしている。やたら声がでかいので僕は読んでいる本に集中できない。そうこうしているうちにカツカレー様が僕の目の前にやってくる。見本よりやたら軽薄な色のルーに僕は些細な不安を覚えるが、そんなことは関係ない。目の前にあったら食うという哲学は僕が生まれた時から変わっていないのだ。ライスとルーの境目にそえてあるカツ
は、分厚くて一切れだけで口の中がいっぱいになりそうである。これだ。求めていたのはこの充足感だ。繊細さなどいらない。機微など唾棄する。ただ食物で体内を征服するために、食事という行為は存在するのだと、僕は実感する。名物の名に恥じるところのない、立派にカツのカツたる役目を果たしている豚のカツ野郎である。ところがやはり邪魔者というのはどこにでもやってくる。この堂々たるカツの手前で、みすぼらしく沈殿しているルーがまさにそれだ。この惨めに薄められ、中間色に堕した見た目、さらさらとして一切まとわりつくことのない弱々しさ、融解してその主張を追憶の果てに置き去りにした具材の数々。僕はそいつらをすすりながら1時間30分の昔に締め出された学食を思い出す。そう、それは間違いなくレトルトである。やる気を感じない。それは辛うじてカレーであるだけで、カレーとして存在する意味を込められていない。カレーとそうではない粘液との境界線上、そのギリギリカレーと認識できるところに穿たれたピンである。
しか勿論、僕はそれを食う。大体、僕にとってはこの喫茶ウェストにくること、ここでこのカツカレーを食うことに意味があったのであって、美味いか不味いかなどもはやどうでもよかった。高校生の頃、僕は友人二人と連れ立ってこの店先で高校生らしいやり方でどうすりゃええんだ入るべきか入らざるべきかという議論を繰り返し、結局餃子の王将にしようという発想の飛躍を得ことがあった。この店に入ろうという提案をしたのは僕だったが、それが却下されたところでまあいい、またひとりでくりゃいいや、とその時は軽く考えていたのだった。先延ばしにしたことをふと思い立ちやり遂げることは、こと僕に限っては格別の感慨がある。大体僕はなんでも先延ばしにしてばかりなのだ。先へ先へと送っているうちに、物事は僕の手の届かないところまで遠ざかって行ってしまう。今度買い占めようと思っていた古本屋は潰れ、後で聞くことにしたアルバムは廃盤になり、いつか読もうと決めた小説は題名を忘れる。僕は堂々たるカツと裏切りのような味のルーを口に含みながら、遠い過去の僕にあのふがいないときの僕に、確かにやってやったぞ。お前の無念は果たしてやったぞ。と呼びかけていた。
ウェストの老婆は耳が遠いので、僕は自分で灰皿を見つけ出して一服していた。男たちの声は多少おとなしくなったものの、まだ読書には少々煩い。これならいったんキャンパスに戻って図書館にでも籠ったほうがましだと思って、僕は喫茶ウェストを後にすることにした。これから僕をゼミから破門した教授が一次会を去り、2次会が始まるまで4時間近く時間を潰さねばならないのだ。
2014年11月3日
午前3時4分。
CNNウェブサイトにて閲覧 “ボコ・ハラム指導者、停戦合意を否定”。隣にリンクされている記事は“「最もセクシーな女性」にペネロペ・クルス 米誌が選出 ”、“超巨大!600キロのサメ”。
ボコ・ハラムはナイジェリアのイスラム過激派組織。現地語で「西洋の教育は罪」を意味するらしい。現地の学校を襲撃して女児を連れ去り、隣国カメルーンなどで売り渡されるか、イスラム教化され、強制結婚、コーランの暗記をさせられる。
今日は富野由悠季オンリーイベントのために千駄木から歩いて茗荷谷まで行った。白山駅近隣のレトロなおもちゃ屋のほかには道中面白そうなものはなかった。茶色い壁紙のさびれた会館の一室行われたイベントで、小規模なのでさして活気もなかった。スクリーンに映し出されているTV版イデオンを疲れた様子の客が数人壁にもたれかかって眺めているという一種異様な光景だった。参加費500円無駄にしたかと思ったが、売り子の女性が湖川友謙の在廊を教えてくれた。手を震わせながら近寄ると、お知り合いと思しきお姉さんが僕を促してくれる。入場券代わりの500円のパンフにサインをお願いすると、合同誌の購入を勧めてくれる湖川先生。流れるままに2500円支払う僕。緊張しすぎて名前が思い出せず、キッチ・キッチンを書いてくださいとお願いできない僕。湖川先生は最後に僕の手を握り、パワーを送ってあげようと言って強く二回振った。湖川先生は拍手に送られて会場を後にした。西日暮里までは遠回りして歩いた。道すがら合同誌をめくってみると、値段に違わない豪華な参加メンバーだった。
その後地下鉄で新御茶ノ水駅まで至り、神保町ブックフェアに。青土社でユリイカ三冊2000円、創元社で佐々木丸美という作家のミステリ4冊、“シカゴよりこわい街”に1300円散財。今日の午後また寄ることになるだろう。
2014年9月9日
午前4時25分
ブラックマジック M-66 アニメ版に寄せて
原作未読でアニメ版を観るという僕の行動規範の中ではややマズいことをしてしまったのだが、機器がないのでBS録画出来ないし、原作BOOKOFFに置いてないし、ということで結局生で観るしかなかった。
と一通り言い訳を済ませて、まず感想から。
一言で言うとメチャクチャ面白かった。やっぱり。士郎正宗の作品にはサイバーパンクとか、生命倫理とか、国際政治とか、その他無数の薀蓄とか、、、と語られるべき、そして語られ尽くしたことが一杯あるんだけど、シロマサ作品のほぼ全てが追体験にしかなり得ない、所詮若輩士郎正宗ファンの僕にとって、それに今さら触れるのはやや無謀だし、そういうのが得意な人が色んなとこに沢山居るのを知っているから、それは他人に任せる。
勿論そういう雑多な事柄も僕にとっての士郎正宗の魅力だし、そういうのを全部かき集めて総和を計ったら、やっぱりその辺りの要素が僕の士郎正宗好きさの大部分を構成しているんだと思う。ただなんとも情けない話だけど、僕にとっての士郎正宗作品の1番の良さは、それが持つ一つのお話としての面白さにかかってくると思うのだ。このアニメ版ブラックマジックは、そういう意味での士郎正宗作品の魅力を僕に再確認させてくれた。(アニメという媒体のせいもあるが)伝家の宝刀の、1コマ当たりの情報量とか、薀蓄とかの面での魅力というのは少ないのに、そこで逆に士郎正宗の作劇というか、話づくりの上手さが浮き彫りになってくることで、一つの良質な体験を提供するという、謂わばエンターテイメントの約束をバッチリ守ってくれている。特に方法論じみた観点から語ることはできないんだけど。
道路上の戦闘シーンの超作画とか、アニメとしての見どころは他にもある。だけどもっと根本的なところでこのアニメの面白さを支えてるものがあって、それは軍隊のカッコ悪さと頼もしさの両方がしっかり描かれてるところや、名前も出ない女将校にグッとくる台詞を吐かせてくること等であって、それがミリオタとしてのシロマサが描く軍人への愛なのか、それとも作劇に深みを出すためのシロマサの技術なのかは知ることができないけど、こういう作品そのものが持つディテールの細かさが、まんまと僕を物語にのめり込ませるのだ。
それと、このタイミングで書くべきではないのだろうけど、どうしても書いておきたいこと。アニメだからこそ活きる演出について。冒頭の、ペンを引き抜いたせいで紙の山がドサドサ崩れ落ちる場面。全然話の上では必要ない演出なのに、こういところで言葉にならない様な作品世界への親近感というか、アニメが持つ生命力、ひいてはそれを作品に吹き込んだ人の世界観、視線というものを感じられたときの快感は、半端じゃない。同じ様な感覚をジブリアニメや世界名作劇場を観てると覚える。あろうことかキャラクターが、感情の細かい動きに揺さぶられてあらぬ方向に顔をむけたり、何気ない細かい動作をミスってみたりしているのは、結局は終局に向けて進むという、ストーリーを進行しなければならないアニメという媒体の宿命を超えたところで、(つまりストーリー進行に関係がないところで、ということを僕は言いたいのだけど上手く言えないのでわざわざカッコを使って説明する。)作品の魅力を構成している。この感覚を、とりわけアニメで顕著に感じるのは、単に僕がオタクだからなのか、それともアニメという媒体そのものが結果的に持つ性質が、よりストーリー、つまりヤマだのオチだののクオリティに依存している(ように見える)からなのか。今判別することは出来ないが、一つ言えることは、上述のような演出をもし映画でやっても、そこまで映えやしないということである。上述のような演出は、もしかしたら映画に起源というか、アイディアの源泉を持つというか、アニメのクリエイター達が意識的にまたは無意識に輸入しちゃったんじゃないかという可能性は高いが、やはり特にアニメで、この演出の良さは現れる。それは結局、現実を映し出すのではなく、ほぼ純粋に内側からのアウトプットであり、手工芸製品たるアニメが原理的に持つ、心だ命だ魂だというものが"吹き込まれる"現象によるものなのだろう。
一方で、このアニメ版ブラックマジックに対する物足りなさも少なからず感じた。それは畏れ多くも、このアニメの主導権を完全にシロマサが握っていたことに起因するのではないかと思ってしまうのだ。
勿論のこと士郎正宗は、アニメ、映画、漫画の違いについては僕なんかより遥かに熟知しているはずだ。今さらこのアニメ化を通してシロマサは何がしたかったんだろうと?マーク浮かべるのはナンセンス極まりないかもしれないが、それでも言いたい。あのバタ臭さはなんだ。カメラワークとか、場面設定とか、やたらスリルの連続小出しをしてくるところとか、完全に一昔前のハリウッドホラー映画だったぞ。特にラスト直前のビル内での逃亡劇。あそこら辺で"俺は今木曜洋画劇場みてるのか?"と錯覚しそうになった。榊原良子や若本規夫のボイスアクトが、余計にその印象を際立たせていた。明らかに、アニメという表現方法で、シロマサは当時としてもおそらく既存だったであろう、正統派サスペンス映画を作ろうとしていたのではないかと邪推してしまう。万が一この推測が間違っていなかったとして、アニメにそれを求めている人はいるのだろうか?
シロマサが海外刑事ドラマや戦争映画から創作アイデアの多大な部分を引き出しているのは周知の事実だし、それを漫画でやってくれる分にはこちらとしては素直な感嘆の気持しか出てこないのだが、ことアニメというプラットフォームで出てくると、幾ばくかの落ち着かなさを感じざるをえない。断っておくが、僕はこの演出にNOを突きつけているわけではなく、あくまで違和感レベルの、居心地の悪さを覚えただけである。ただこの演出のせいで鑑賞中についつい笑みがこぼれてしまう瞬間が何度かあり、果たして観ていて笑えてくるような演出とはどうなんだろうと疑問に思ってしまうのである。
先に書いた通りこれはアニメなので、原作にあるようなコマ外の注釈とか、薀蓄に富んだ後書きによる、士郎正宗"ならでは"の作品への肉付は、味わうことができない。それは時間や、テンポという制約を受けることのない、漫画という媒体だけの利点であって、じゃあ、アニメでは何を付け加えることができるだろう、という挑戦の結果が、あのアクション映画みたいな演出なのだろうか?原作で見られる、知的欲求を満たしてくれるあの素晴らしい追加的要素の代替が、この観ていて不快感など感じないにしろ、ある意味の親しみを伴う滑稽さで、果たしていいのか?
なんか調べてみたら、シロマサはコンテ切っただけで、監督業にはほとんどタッチしてないという情報が。だから何か意見が変わるというわけではないが。
しかし、やはり総括していえることは、そういう違和感も含めて、"ブラックマジック"は最高のエンターテイメントであったということであり、そのフィルターを通して、作者の視線にそって見える世界を、その世界への愛情を、僕も拙いながら体験できたのである。
追記:やはり作品の面白さと、割りと忠実に再現された士郎正宗キャラクターが動いていることへの感動と興奮にあてられてか、いつも以上にメタクソな文章になってしまっている。これでも一度見直して手直ししたのだが、処置不可能なレベルで崩れている。今回ある程度くだけた語調で書くことに挑戦したのは、僕自身のために、この記事が読まれたときのハードルを下げるためだ。といってもこのブログの読者は僕自身をおいて他にはいないので、要するにいつかこの記事を読み直すことになったときの、この文章の至らない部分にたいする僕自身の落胆や、不快感を和らげるためだ。焼肉とか、日記とか下らない物事に対して堅苦しい文章を用いるのはある意味の冗談っぽさを持たせるのに貢献する一方で、アニメ、とりわけ士郎正宗作品の様な僕の中である程度の神聖さを持っている話題に真面目な語り口で臨むのは、やはりその話題と語り口に釣り合うだけの含蓄というか、内容の豊かさを必要とするのであって、ところが僕の文章(≒僕の頭の中)にはそれ程の中身はないのだ。そこで有る程度くだけた、"いや俺はこう思うんだけとね"的なニュアンスを漂わせるための文体が引っ張り出されてきたのである。
そして、この追記自体も、後日このエントリーを読んでいることになるであろう未来の僕への、言い訳でしかない。