ブラックマジック M-66 アニメ版に寄せて


原作未読でアニメ版を観るという僕の行動規範の中ではややマズいことをしてしまったのだが、機器がないのでBS録画出来ないし、原作BOOKOFFに置いてないし、ということで結局生で観るしかなかった。

と一通り言い訳を済ませて、まず感想から。


一言で言うとメチャクチャ面白かった。やっぱり。士郎正宗の作品にはサイバーパンクとか、生命倫理とか、国際政治とか、その他無数の薀蓄とか、、、と語られるべき、そして語られ尽くしたことが一杯あるんだけど、シロマサ作品のほぼ全てが追体験にしかなり得ない、所詮若輩士郎正宗ファンの僕にとって、それに今さら触れるのはやや無謀だし、そういうのが得意な人が色んなとこに沢山居るのを知っているから、それは他人に任せる。

勿論そういう雑多な事柄も僕にとっての士郎正宗の魅力だし、そういうのを全部かき集めて総和を計ったら、やっぱりその辺りの要素が僕の士郎正宗好きさの大部分を構成しているんだと思う。ただなんとも情けない話だけど、僕にとっての士郎正宗作品の1番の良さは、それが持つ一つのお話としての面白さにかかってくると思うのだ。このアニメ版ブラックマジックは、そういう意味での士郎正宗作品の魅力を僕に再確認させてくれた。(アニメという媒体のせいもあるが)伝家の宝刀の、1コマ当たりの情報量とか、薀蓄とかの面での魅力というのは少ないのに、そこで逆に士郎正宗の作劇というか、話づくりの上手さが浮き彫りになってくることで、一つの良質な体験を提供するという、謂わばエンターテイメントの約束をバッチリ守ってくれている。特に方法論じみた観点から語ることはできないんだけど。

道路上の戦闘シーンの超作画とか、アニメとしての見どころは他にもある。だけどもっと根本的なところでこのアニメの面白さを支えてるものがあって、それは軍隊のカッコ悪さと頼もしさの両方がしっかり描かれてるところや、名前も出ない女将校にグッとくる台詞を吐かせてくること等であって、それがミリオタとしてのシロマサが描く軍人への愛なのか、それとも作劇に深みを出すためのシロマサの技術なのかは知ることができないけど、こういう作品そのものが持つディテールの細かさが、まんまと僕を物語にのめり込ませるのだ。


それと、このタイミングで書くべきではないのだろうけど、どうしても書いておきたいこと。アニメだからこそ活きる演出について。冒頭の、ペンを引き抜いたせいで紙の山がドサドサ崩れ落ちる場面。全然話の上では必要ない演出なのに、こういところで言葉にならない様な作品世界への親近感というか、アニメが持つ生命力、ひいてはそれを作品に吹き込んだ人の世界観、視線というものを感じられたときの快感は、半端じゃない。同じ様な感覚をジブリアニメや世界名作劇場を観てると覚える。あろうことかキャラクターが、感情の細かい動きに揺さぶられてあらぬ方向に顔をむけたり、何気ない細かい動作をミスってみたりしているのは、結局は終局に向けて進むという、ストーリーを進行しなければならないアニメという媒体の宿命を超えたところで、(つまりストーリー進行に関係がないところで、ということを僕は言いたいのだけど上手く言えないのでわざわざカッコを使って説明する。)作品の魅力を構成している。この感覚を、とりわけアニメで顕著に感じるのは、単に僕がオタクだからなのか、それともアニメという媒体そのものが結果的に持つ性質が、よりストーリー、つまりヤマだのオチだののクオリティに依存している(ように見える)からなのか。今判別することは出来ないが、一つ言えることは、上述のような演出をもし映画でやっても、そこまで映えやしないということである。上述のような演出は、もしかしたら映画に起源というか、アイディアの源泉を持つというか、アニメのクリエイター達が意識的にまたは無意識に輸入しちゃったんじゃないかという可能性は高いが、やはり特にアニメで、この演出の良さは現れる。それは結局、現実を映し出すのではなく、ほぼ純粋に内側からのアウトプットであり、手工芸製品たるアニメが原理的に持つ、心だ命だ魂だというものが"吹き込まれる"現象によるものなのだろう。



一方で、このアニメ版ブラックマジックに対する物足りなさも少なからず感じた。それは畏れ多くも、このアニメの主導権を完全にシロマサが握っていたことに起因するのではないかと思ってしまうのだ。

勿論のこと士郎正宗は、アニメ、映画、漫画の違いについては僕なんかより遥かに熟知しているはずだ。今さらこのアニメ化を通してシロマサは何がしたかったんだろうと?マーク浮かべるのはナンセンス極まりないかもしれないが、それでも言いたい。あのバタ臭さはなんだ。カメラワークとか、場面設定とか、やたらスリルの連続小出しをしてくるところとか、完全に一昔前のハリウッドホラー映画だったぞ。特にラスト直前のビル内での逃亡劇。あそこら辺で"俺は今木曜洋画劇場みてるのか?"と錯覚しそうになった。榊原良子若本規夫のボイスアクトが、余計にその印象を際立たせていた。明らかに、アニメという表現方法で、シロマサは当時としてもおそらく既存だったであろう、正統派サスペンス映画を作ろうとしていたのではないかと邪推してしまう。万が一この推測が間違っていなかったとして、アニメにそれを求めている人はいるのだろうか?

シロマサが海外刑事ドラマや戦争映画から創作アイデアの多大な部分を引き出しているのは周知の事実だし、それを漫画でやってくれる分にはこちらとしては素直な感嘆の気持しか出てこないのだが、ことアニメというプラットフォームで出てくると、幾ばくかの落ち着かなさを感じざるをえない。断っておくが、僕はこの演出にNOを突きつけているわけではなく、あくまで違和感レベルの、居心地の悪さを覚えただけである。ただこの演出のせいで鑑賞中についつい笑みがこぼれてしまう瞬間が何度かあり、果たして観ていて笑えてくるような演出とはどうなんだろうと疑問に思ってしまうのである。

先に書いた通りこれはアニメなので、原作にあるようなコマ外の注釈とか、薀蓄に富んだ後書きによる、士郎正宗"ならでは"の作品への肉付は、味わうことができない。それは時間や、テンポという制約を受けることのない、漫画という媒体だけの利点であって、じゃあ、アニメでは何を付け加えることができるだろう、という挑戦の結果が、あのアクション映画みたいな演出なのだろうか?原作で見られる、知的欲求を満たしてくれるあの素晴らしい追加的要素の代替が、この観ていて不快感など感じないにしろ、ある意味の親しみを伴う滑稽さで、果たしていいのか?

なんか調べてみたら、シロマサはコンテ切っただけで、監督業にはほとんどタッチしてないという情報が。だから何か意見が変わるというわけではないが。

しかし、やはり総括していえることは、そういう違和感も含めて、"ブラックマジック"は最高のエンターテイメントであったということであり、そのフィルターを通して、作者の視線にそって見える世界を、その世界への愛情を、僕も拙いながら体験できたのである。


追記:やはり作品の面白さと、割りと忠実に再現された士郎正宗キャラクターが動いていることへの感動と興奮にあてられてか、いつも以上にメタクソな文章になってしまっている。これでも一度見直して手直ししたのだが、処置不可能なレベルで崩れている。今回ある程度くだけた語調で書くことに挑戦したのは、僕自身のために、この記事が読まれたときのハードルを下げるためだ。といってもこのブログの読者は僕自身をおいて他にはいないので、要するにいつかこの記事を読み直すことになったときの、この文章の至らない部分にたいする僕自身の落胆や、不快感を和らげるためだ。焼肉とか、日記とか下らない物事に対して堅苦しい文章を用いるのはある意味の冗談っぽさを持たせるのに貢献する一方で、アニメ、とりわけ士郎正宗作品の様な僕の中である程度の神聖さを持っている話題に真面目な語り口で臨むのは、やはりその話題と語り口に釣り合うだけの含蓄というか、内容の豊かさを必要とするのであって、ところが僕の文章(≒僕の頭の中)にはそれ程の中身はないのだ。そこで有る程度くだけた、"いや俺はこう思うんだけとね"的なニュアンスを漂わせるための文体が引っ張り出されてきたのである。

そして、この追記自体も、後日このエントリーを読んでいることになるであろう未来の僕への、言い訳でしかない。