炭火焼肉ピカソ

午後11時40分。

肉とは不可思議なものである。いくら食べようと、あれだけ摂取しようと、どれ程食べた直後に後悔し、もう二度と食わないと誓おうと、翌日にはまた吐く程食べてやりたいと思っている。


焼肉を食いたいという密かなフラストレーションは、二週間ほど僕の中で胡座をかいて不満の声を上げ続けていた。資金がなかったわけではない。別段忙しかったわけではない。ただ、人間が物事をなす時の支配的な要素;効率や便益などの実利的な要素とは種を異にする、むしろそれらの要素に対しては、考慮すること自体が妨げでしかない側面ータイミングというやつがここ数週間なかっただけであり、それが今日、素知らぬ顔でやってきたのだった。


"炭火焼肉ピカソ"は卓越した店ではない。名店という呼び名はそこには相応しくない。そこは市井の店であり、顔を持たない大衆の店である。

けだし焼肉を食べるとき、人は何を求めるのか。良い時間を、笑顔を湛えて過ごせるひと時を望むのか。格別の味を愉しみたいのか。それとも日々の労働の対価を、そして翌日からの無明の精励への原動力を、それに求めているのか。僕は違う。ただ、肉を食いたい、飽きれて後悔する程肉を噛み切り、咀嚼し、飲み込みたいという原理的な渇望を満たすために、焼肉を食べるのである。この根源的欲求を、それ自体に似合った粗野で飾り気のない形で充足させてくれるものを、僕は焼肉以外に知らない。

ここまで僕たちは焼肉を食べることの目的について、概ね合意することができた。ではその目的を純粋に遂行するために、焼肉には何が求められるのか。それは圧倒的な廉価と、途方もない物量である。"ただ肉を食べたい"という懸命な希求に対し、上等さだとか、安全さだとかは、野暮な飾りでしかない。つまりそこで食べる肉は、砂のような物だろうと、ブロックのようだろうと、輪ゴムのような物だろうと、どうだっていいのである。つまり大量に食べることができる、その目的を経済的な観点から解決するための安価さが約束されることが、ここでは求められている。

炭火焼肉ピカソが、市井の店であるのは、市民の希望にもっともそう形で、この目的への解法を供給しているからだ。一皿100円〜。もはや開き直りすら感じるオファーは、需給法則というオモチャを果敢に破壊する。安さには何らかの理由が必要である。それは余りの安価さが僕達に連想させる危険や、不安を解消するためではなく、この店、ピカソがこれからも健全に存続して行くこと、この最良の供給の担い手が僕達の必要に答えるという約束が守られていくために必要なのである。

その帰結(の可能性)のひとつとして、それでもまだ先程あげた安価さとは不釣合いではあるのだが、この店には給仕の店員が1人しかいない。故に、店内は恒常的に繁忙の様相を呈している。例のオモチャを踏みにじってしまったが故の需要過多。1人で抱え切れることがどの程度に不可能であるか、僕達が想像することが難しい活況の中に、その孤立した店員兄君はいる。この盛況の中にあっては、彼が並の人間ならば、自然に彼の顔から笑みは消えるべきであるし、そのことについて僕達は、一片の不快感も心に差し挟まないだろう。しかし今晩、彼はとうとうその柔和さと快活さを放棄することがなかった。それは接客業故の義務という唾棄すべきマナーを守ることへの適宜性を超え、見ている者を感嘆させるほどの姿勢だった。

先程言及した事由のもう一つの帰結を、ただ事実として、一切の価値判断を含まない、純粋に中立公正な報告として、挙げなければならない。この店の肉は、薄い。ここで、邪推と好奇心を伴う無垢な悪意を豪ほどでも持つ人、つまり標準的な人間である方は、こう想像する筈である。つまり、この店の持つ利点と、欠点は、その度合いにおいて釣り合うべきであると。言い換えるなら、人がこの店でみる肉の薄さの過剰なことは、一皿100円〜という安さの途方もないことに匹敵する筈であると。残念ながら、(そして誇らしながら)その嗜虐心に僕は応えることができない。何故ならこの店の肉の薄さは、"比較的"という言葉を前置するに相応しいものであり、僕達が古今、出会ったことのない程や、後生聞くであろうことのない程のものではないからである。しかし、やはりありとあらゆる評価を差し挟まない、言葉そのままの形で、この店の肉が薄いということは、これから記す小慮のために述べておく必要がある。炭火焼肉ピカソは、設立から15年以上を経ている。その設備は些か旧式であると言わざるをえない。この店では来客は七輪で肉を焼かなければならない。よって火力の調節は不可能である。そして七輪の中に据えられているのは、歴とした炭火である。軟弱なガスコンロやバーナーより、遥かな火力を持つ物である。その炭と肉を隔てるのは、鉄板組みの網やホットプレートではなく、無慈悲な針金組みの網である。よってこの店の肉の、厚さというよりは薄さといった方が適した性質に対し、その火力は過剰であることは認めなければならない。このことから、焼肉が本来持つ、食べるまでに通過すべき遊戯性が、更に活気を呈したものになる。僕達は肉を焼くことに、最低限以上の注意を払わなければならない。平生であれば可能な、食べながら焼くということはどだい容易いものではなく、諦めざるをえない。かくして、焼くこと、食べることを同時進行せず、これらを交互に繰り返すのを、この店は強いるのであり、僕達は甘んじてそれを受け入れた。

焼肉という食事が他の凡百の同族から卓越している点は、それがそれ自体として、独自のイベントとなり得ることである。ラーメンだの、定食だの、ハンバーガーだのといったメニューがそれ自体独自に持つ魅力は周知の事実であるし、ここで書くには適さないものだが、それらは逃れ得ぬ宿命として、1日の流れの内に組み込まれる、ある種のパッシブな行いである"食事"の範疇を脱し得ない。対して焼肉は、その焼く、という行為が持つ愉快さからか、それとも肉を焼く、ということに対し僕達の遠い祖先が残した記憶を、DNAが思い出していることからか、あるいはその両方か、それとも他の思いもよらぬ理由からか、それが一孤の不羈の行いとして、1日のハイライトたり得る存在感を持っているのである。今僕は非常に難しい話をすることに挑戦している。ここで僕が述べていることの根拠はエモーショナルなもの、観念的なものであり、さほど理性的な、或いは明確な根拠を持たない。さりとて、個人的な価値観の差異によるものとも思えない。しかし、焼肉が他の食事に対してもつ独自さは、我々が普段「ラーメン行った」と言う時や「ハンバーガー行った」と言う時は、言外の前提としてラーメン(屋)、ハンバーガー(屋)という様に、それが提供される店を指しているのに対し、「焼肉行った」と言う時には明らかに、焼肉屋で肉を焼く、という行為に対するニュアンスを含んでいることからも伺える。この僕の主張への反証として、焼肉の形態そのものが一般的に、自分で肉を焼くという行為を伴っているのだから、上記のようなハンバーガー、ラーメンといった食べるという行為のみを内包するメニューを比較対象とした弁証は、誘導だということが言われるかもしれない。ならば、鍋ならどうだろう。「鍋行った」という表現が一般的であるかどうかは別として、鍋も明らかに、単純に食物を摂取する以外に、何らかの作業を僕達に課す性質を持った産物である。しかし、「鍋行った」と言われるとき、そこには「焼肉行った」が持つ、あの作業を連想させる生き生きとした高揚や、その日の突出したイベントたる孤高さはない。同じことが、「しゃぶしゃぶ行った」や「すき焼き行った」にも言えるのではないだろうか。

追記-ところが、これは「もんじゃ行った」「お好み焼き行った」だと当てはまるのではないか。これは今後の研究対象とする。

かくして焼肉が持つ特筆すべき娯楽性を更に活気付けながら、炭火焼肉ピカソは僕の飽くなき欲求、肉が食べたいという祈願を、一旦は満たしてくれたのである。同伴者某君と2人で計24皿、実質(ピカソ曰く)12人前、ライス大盛り、冷麺を消費した僕は、煙臭さを身に纏って、家路についたのだった。